売れなきゃ、ダメなのか?

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こんな意見があり、広告の役割について考えてみたりしたりしていたら、この古い広告を思い出した。

 

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画像はこちらより。細かい内容も。

 

広告ならではの語り口がある。

「私たちの製品は、公害と、騒音と、廃棄物を生み出しています。」
だなんて、いまSNSとかで出したら炎上するでしょうね、良くも悪くも。広告だからこそ成り立つフレーズといえるでしょう。

この広告によってクルマを通して環境問題を喚起するきっかけになったし、
ボルボという会社の環境に対する姿勢を、広くみんなが知るきっかけになった。

そういう企業広告、ブランディング広告の好例として、いまも思い出される名作ですね。このボルボの広告は。

広告の役割って?

もちろん、この広告でクルマはすぐには売れないかもしれない。
けれど、この広告を見てクルマを選ぶ基準に「環境」を加える人が増えたかもしれないし、それによって将来的にクルマ選びにボルボをチョイスする人が増えた、かもしれない。

そんなの、効果測定できないじゃないか、って言われるんですよ。今だと。
確かにそうなんですけど、だったら冒頭のFBタイムラインの人が主張している「従業員のモラルアップや社会貢献」も指標化できないですよね。

広告は、モノやサービスを売るためのモノでなければいけない。
けれど、将来の顧客を増やしたり、ブランドや企業そのものの価値を高めるのも、広告の役割だ。

揺り戻しがきそうな気がしてる

いま広告というと、インターネットで、ECで、ひとつの商品をどれだけ効率的に売るか、ということに注目が集まりがち。ビッグワードをいくらで買ってリスティングをかけて、SEOを上げるためにコンテンツを足して、、、とか。

でもそこには、企業と客とのコミュニケーションがない。値段とか送料とかレコメンドとか、そういう現実的なことばかり。僕らと商品の間って、それだけでいいの?と思う。ちょっと飽き飽きしてない??

インターネット化で確かに便利になったけど。なんかギスギスした方向にいきすぎてないか。信頼とか愛着とか、そういう指標化できない絆を企業と客の間で新しく結び直してもいいんじゃないか。そろそろ、そんな揺り戻しがあってもいい気がしている。

その一例として、カップヌードルの新CMがあると思った。だけどそれは、広告業界の人間の欲目かな?

「働き方革命」ってなんだ?

コピーライター歴20年の私が、クラウドワークスの決算発表に突っ込んでみた

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「制作」と「製作」の違い、分かります? 

「制作」は、映画などの創作物を作ること。僕ら広告業界も、こちらの「セイサク」だと、入りたての頃に先輩から教わった。で、「製作」は道具を使ってモノづくりをすること。世の中、そのへんがごちゃごちゃにされているけれど。クラウドワークスもそんな感じがウェブサイトで見受けられる。広告業界でも、かなり混同されてるけどね(笑) 

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平均月収32万円は凄い

そのクラウドワークスが少し前に決算発表をして、ブログなどで話題になった。
僕は広告系の制作者なので、基本、広告やウェブサイト制作の視点になるけど。なので、エンジニア系はあまり突っ込めない。 

平均月収32万円は凄いんじゃないかな、と資料を見て素直に思った。ただ、それは月収20万以上の人の月収という但し書きがつくけど。そういう人は全部で111人。ワーカーさんは全部で80万人というから、稼いでいるのはほんのわずか。割合とか計算するのも面倒なので誰か計算して(笑)。

ちなみに、収入20万円越えのワーカーさんに対する支払総額は38,209,530円、2割のマージンを取ったとして売上げ47,761,913円。差し引きの利益は約9,552,383円、ざっくり1千万円。この期の収益総額が2億8千500万円となっているから、20万円越えのワーカーさんが同社の収益に占める割合は3%ちょっとでしかない。 収益のこういう構造は、楽天の出店者(社)も似たようなものなんだろうと思う。

クラウドワークスの募集案件を見ても、エンジニアの開発案件は50万円とか100万円の案件があるけど、ライティングやデザインの仕事は単価が安い。数百円単位なんていうのもザラ。制作の仕事で多くの金額を稼ぐのは、かなり大変そうだ。 

プロジェクトマネジメントは?

クラウドワークスではもうひとつの“柱”を用意している。上記で説明したのは中小企業向けのプラットフォームと呼ばれるカテゴリ。地方の店舗や小さい企業の細々とした案件を、ワーカーと直接やり取りするものだ。

 それに対して、大きな企業の少し大きな案件をクラウドワークスのスタッフがマネジメントする、大企業向けのプロジェクトマネジメントも用意されている。小さな案件はウェブサービスで数を稼ぎ、大企業向けの案件をは自社で直接さばいて利益を上積みする戦略だ。 

ただこれは、前者の中小企業向けのプラットフォームしか残らない予感がしている。 

昔やったことがある、クリエイターのマッチング

実をいうと僕は、クラウドワークスと同じようなビジネスモデルを手伝ったことがあって。当時、定着し始めたネットを使って、地方のクリエイターをネットワークしてクライアント側のニーズとマッチングさせようとしたわけ。

ただ、ネット上での募集は“自称”クリエイターが多くて、スキルに不安があるし、実際に発注しても納期に間に合わないことも多々あり。修正をお願いしたら“バックレ”られてしまったり。

結局、どの案件も気心の知れたスタッフとリアルに打ち合わせをしながら進める普通の制作ビジネスに落ち着いていった、という経過がある。
今もクリエイター系のマッチングサイトがあるけど、案件ベースのマッチングは限定的。基本はウェブのコーダーや版下作業などの人材派遣がメインになってるし、実際にそのサービスを利用している制作会社も多い。 

何が「革命」なんだろう? 

クラウドワークスを使ってデザインやプログラミングでせっせと働いて、月収20万程度の収入を得る人は、これからも増えていくんだろう。子育てや介護など、何らかの事情で自宅で暮らさざるを得なくなった元デザイナーや元エンジニアという人がいると思うけど、そういった人たちが収入を得る新しい選択肢が増えたと思う。 

クライアントにとっても、例えば地方の小さいショップが開店するときに、ロゴマークなどのデザインもいっしょに店舗デザイナーに任せて、「あんまり気に入ってないんですよ」なんてオーナーさんの声をよく聞いたたけれど、そんなときの解決策としてクラウドワークスの仕組みは有効だと思う。納得のいくデザインがリーズナブルなコストで得られて、その結果、もっと納得いく開店ができて、オーナーさんもきっと満足でしょう。 

せっかくの“うまみ”が・・・

もうひとつの柱である、プロジェクトのマネジメントの方は? というと、たぶんクラウドワークスはシステム会社だと思うので、制作に関する知識や経験が必要とされるプロジェクトマネジメントが、はたしてうまく回せるのだろうか、という心配がある(僕の勝手な心配だけどw)。

だからといってその部分を外注したら、利益が薄くなって、せっかくの“うまみ”がなくなってしまうんですけどね。以前、僕が手伝った会社は基本的に制作会社だったから問題なかったけど。 

制作の分野も2極化が進む?

流通で「中抜き」が横行し、問屋抜き、EC販売が当たり前になったように、制作の世界でも同様となりそうな予感はしている。ただそれは、クライアントも制作者もビジネス規模の小さい、コストコンシャスな領域に限定される。大きなクライアントや制作物では、コストも大事だけれど、クオリティやスケジュールを重視するから、やはりコントロールしやすい相手:大きな代理店や実績のある制作会社に出す、という流れはきっと変わらない。 

ただし、「中抜き」によって中小の代理店や制作会社は苦境に立たされることが多くなるんじゃないか。それによって、大きな案件を扱う大きな代理店や制作会社と、クラウドワークスのワーカーさんのような個人ベースの制作者との2極化がきっと進むはず。 

さて、僕はどっちにいったらいいんでしょう(笑)

東日本大震災、福島原発惨禍から5年。相変わらずな(一部の)マスコミにがっかり。

福島「放射性物質」土壌汚染調査 8割の学校で驚愕の数値が!
ダメだよ、この記事。と、読んだ瞬間、思った。

ただ、大きなテーマなのでよく考えようと思い、翌日、もう一回呼んだ。
ダメだ、という思いは変わらなかった。

念のため、明日もう一回読むことにしたんだけど、思い変わらず。で、このテキストを書き始めたわけだ。

この記事のどこをダメと感じたか。

誰も救われないからだ。

確かに、記事に出てくるママたちは、自分たちが強く不安に思っていることを中央の大きなマスコミに取り上げてもらって、少しは気が晴れたかもしれない。「やっと話を聞いてもらえた。伝えてもらえた」と。

だけど、それだけのことだ。
この記事では、ママたちが不安に感じる放射線のことは、1ミリも解決しない。

それどころか、「福島にはまだ多くの放射能が残っている」と、風評被害を再燃させてしまいかねない。

地域を復旧させようと、必死になって取り組んでいる人がいる。汚染された土壌の改善や地域の人の健康管理、地元の産業復興などで、いろいろな人が熱意を持って活動している。
そんな人たちにも、この記事の伝え方は残念でしかないはずだ。

繰り返し書くけど、この記事では福島の放射線問題は1ミリも変わらない。5年も経ったのに、編集者は何を見て感じてきたというのだろう。
僕が一番ダメだと思ったのは、この記事のタイトル。

『福島「放射性物質」土壌汚染調査 8割の学校で驚愕の数値が!』
スキャンダリズム丸出し。クリックを狙うブログによくある見出し。

ただ、記事をよく読むと、後半では福島の構造的な問題点が指摘されている。日本の社会的な問題ともいえる。僕も共感する部分があるし、いまの時点でこの記事を出すならこちらの部分がメインになるべきではないか。現場の状況がなぜ見過ごされてしまうのか、なぜ、地元の人が納得いく改善が進まないのか、問題提起になるはずなのに。

どうしてこの後半部分が主題にならずに、スキャンダラスな見出し付けと、それを受けるけばけばしい記事構成になってしまうのか。

あの大震災と、福島の惨禍から5年。テレビや新聞、雑誌、ウェブで、復興に頑張る地元の人たちの様子が伝えられている。
悲しいこと、無念なことが起きたけれど、それを乗り越えようとして頑張っている人たちがいる。
地元の人は、前進しようとしている。変わろうとしているのだ。

なのに、この記事を作った人たちは、何ひとつ変わっていないように見える。
原発問題が起きた当初、スキャンダラスな特ダネ報道の競争が繰り返されたけど、あのときの気分がいまだに抜け切れていないんじゃないか。

5年も経ったんだから、報道の姿勢や内容も変わっていくべきじゃないのか。

週刊誌に、いつもいつも高邁な記事を期待してるわけじゃない。
だけど、みんながとても悲しく辛い思いをした、あの事件に関することくらいは、前進しようとする被災地の人を後押しするような、僕たちに問題点を提起するような、そんな記事を作るべきじゃないか。

それともうひとつ。

期せずして「保育園落ちた、日本死ね」のブログが話題を集め、国会ですったもんだのあげく、保育士に特別手当ての予算が組まれるような動きも出ている。

マスコミの役割って、こういうことじゃなかったか。
いまの社会の問題や矛盾を浮かび上がらせ、世の中を動かす。

特に週刊誌は、こんな身近な問題に関する世論喚起が得意なメディアだったはずなのだが。

「起業塾で起業した人の話聞いて、起業なんてできるわけがない」

確かにそうだ。

クルマを運転しようと思って運転している人は、そんなにいない。

本当は、どこかに行きたいからクルマを運転するわけ。
運転は手段であって、目的ではない。
「クルマを運転」という言葉を「起業」に変えれば、すぐに分かる。

そんなことも分からずに、起業塾に行く人がそんなに多いんだろうか?

自分で作ったジュエリーを売りたい、
イタリアのこのおいしいお菓子を日本に紹介したい、
営農で町おこしをしたい、

そういう目的があって、それを効率的にエンハンスする方法として「起業」があるんじゃないか、と。

しかも、起業のスタイルはひとつじゃない。事業によってさまざまなので、塾に行って総論的なことを教わってきても、そんなにすぐに役立つとは思えない。

新しいことを始めるのはとてもパワー必要だ。ロケットが発射するとき、ものすごい量の推進力が必要で、炎と煙に包まれるように、起業には時間も労力も、そして資金もかかる。
越えなければならないハードルも待ち構えているだろう。

そんな困難を乗り越えて、起業を軌道に乗せるには、やはり「○○したい」という企業の目的だったり、それを実現させたいという「夢」じゃないか。
決して「起業」ではないと思う。

だから、冒頭の記事にもあるように、起業塾に通っても成功できる人はいない。そんな時間があるんだったら、自分が売りたいこと、やりたいビジネスを突き詰めて、尖らせた方がいいんじゃないか、と思う。

ベッキーは和田アキ子で、川谷絵音は小林幸子じゃないか。

ベッキーと川谷絵音の不倫騒動が広がっている。ニッカンスポーツから“まとめ”が出されていたほど。最近は、大きなメディアもこういうことをやっているんだ、と妙に感心したり。

川谷絵音が消される!?

話の経過はともかく、僕がこの件で興味を持ったのは「川谷は消されるかも」といったニュアンスの記事が出はじめたこと。なんでもベッキーは大きな所属事務所の所属で、ほかの事務所関係者からも可愛がられているらしい。なので、最悪の場合、そういった“芸能界のドン”たちから、今回の騒動の代償として川谷は追い込まれていく。最悪、芸能界から抹殺されるかもと、まことしやかに。まるで映画「ゴッドファーザー」のような話で、門外漢の僕は逆にワクワクしてしまう。

でも、その記事をウェブで見たとき、ちょっと違和感を感じた。だって、少し前とは時代も状況も違うから。
それと同時に、このコラムで取り上げられていた小林幸子と和田アキ子も思い出した。

オープンな場で人気を広げた「メガ幸子」

小林幸子は、不祥事で一度は失速したけれど、ニコ動などでネットの支持を集めて、「メガ幸子」として紅白復活を遂げた。昨年末に唄ったのがボカロの「千本桜」で、紅白本番中の画面も応援メッセージで埋め尽くされる演出もされていた。

ネットを使って、オープンな場で新たなビジネスチャンスを拡げ、それをモノにしてきた。まさに、フットワークの軽い、いまっぽいビジネス展開。そんなところに僕は好感を持っている。

一方、ネットユーザーから評判良くないのが、和田アキ子。芸能界ではドンのような存在だけど。最近、Twitterを始めたが、ぎこちない運用でかえって反感を買ったりしているらしい。

もはや、陰でコソコソやる時代ではない

和田アキ子の“マーケティング手法”は、旧来のままというか、何もしていないように見える。いいモノは黙っていても売れる、と主張する職人のような頑なささえ感じる。歌が上手ければ、それだけで売れる時代ではないのに。

それに小林幸子のような“オープン感”がない。最近、政治家や企業家が院政をひいたり、さらに最近ではステマのように、陰でコソコソやるのは毛嫌いされる。特にオープンを常とするネットユーザーは敏感だ。和田アキ子にも同じようなにおいを感じているのではないか。

そんなことをつらつらと考えつつ、ベッキーと川谷の騒動を見ていたら、ベッキーが和田アキ子に見えてきた。ルックスではなく、置かれた立場のことだ。念のため。

ベッキーも芸能界で活躍し続けてきて、関係者からの信頼も厚く、業界内では一目置かれる立場になってきた。だからこそ今回の不祥事では、会見が必要だった。この問題にケジメを付け、これからも生きていくために。それがこの業界の習わしだし。それなりの“大物”なので、ゴメンナサイって頭を下げれば、みんなもシャンシャンと手を打ってくれるだろう、と。でも、そういったコソコソ感ただよう業界風習に対して嫌悪感を持った人も多くて(僕も持った)、それもあってあんなに炎上したのではないか。

T-1000と、シュワちゃんのターミネーターの対決?

一方、川谷は小林幸子だ。フットワーク軽く、自分の才能でチャンスや活動範囲を広げることができる。テレビがダメなら、ライブがある、ネットもある。確かに芸能界の実力者は力は持っているだろうけど、そんな広い世界までその力が及ぶのだろうか。メディアや記者は、“芸能界のドンが川谷を潰す”なんて本気で書いているんだろうか。もしそうだとしたら、視野が狭くないか。

今回の騒動で「ゲスの極み乙女。」の活動も危ない、などとも書かれていたけれど、だったら川谷が所属するもうひとつのバンド、「indigo la End」で活動すればいいだけのこと(そこを突っ込む芸能メディアがないのはなぜ?)。

映画「ターミネーター」に出てくる液体金属のT-1000のように、川谷はいろいろなスタイルに変身する。パンチを繰り出すと、カタチを変えてするっとかわしてしまう。そんなとらえどころのない彼を、はたして旧来勢力のような“ギョーカイのドン”やその関係者が潰せるのか。T-1000とシュワルツェネッガーのマッスル・ターミネーターの対決のようで、それはそれで興味が湧く。映画ではよりリアルっぽいシュワちゃんが勝ったけれど、バーチャルなネットがこれだけ普及した2015年のいまはどうなんだろう?

はたして、川谷はこれからも活動を続けられるか、そうでないか。今回、話の発端はくだらない不倫騒動だったけれど、興味がわいてきた(笑)。

“お客様目線”すぎて、TPOを忘れたデザイン。新国立競技場

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スタジアムは、非日常の祝祭空間だ

「どんな試合になるんだろう」「さあ、やるぞ!」
そんなふうに、気持ちが自然と高まってくる場所だった。以前の国立競技場は。

地下鉄の駅から地上に出て、すり鉢状にそそり立った構造物を見あげると、自然と気持ちが昂ぶってくる。これから始まるゲームに対する期待や予感でワクワクしてくる。非日常の空気を身に纏ったあの建物には、スポーツを見に来た人まで“その気”にさせてくれた。

スポーツは演劇や映画などと同様、非日常を楽しむエンターテインメントだ。日頃の煩わしいことはさておき、ありえないようなスピード感やアスリートの瞬間のひらめきに目を奪われ、心ときめく。
そんなスポーツと一体となるスタジアムには、やはり“舞台装置”ともいうべき機能が欲しい。観戦する僕たちを日常から隔絶させ、スポーツや競技と一体となり、熱狂や興奮ををかもし出す雰囲気。そうした、祝祭空間としてのカタチや機能がとても大切だと僕は思っている。神を祀る神社には神社の、教会には教会の、それぞれの建築の“文法”のようなものがある。ちょっと強引かもしれないけれど、そうした文法がスタジアムにもあると思うのだ。

昔の国立競技場には、それがあった。日常の景色にはない、あの逆反りの巨大な構造物とそれを支えるための大きな柱が円を描いて立ち並ぶ光景を見ると、僕自身のスイッチが切り替わった。
そしてスタンドに座ると、まわりに建ち並ぶビルの光景が、スタジアムの楕円のカタチにくりぬかれ、そこだけ孤絶しているかのような空間。東京のど真ん中にいながら、見上げると空しかない。そこはスポーツを純粋に楽しむ人だけの空間になり、そこだけ特別な時間が流れ、熱狂や興奮が生まれていた。

アリアンツ・アレーナはドイツサッカーのシンボルに

実際に行ったことはないけれど、サッカーのドイツ・バイエルンミュンヘンの本拠地、アリアンツ・アレーナ(下の画像)は現代の祝祭空間として出色だと思う。
パッと見ただけでも新しいデザイン。巨大な繭のような構造体につつまれ、選手とサポーターとが高密度に一体となる。サッカーという競技を通して感動や興奮が紡ぎ出される。まさに、非日常の祝祭空間だ。
この競技場は2006年のドイツ・ワールドカップのために建設されたもの(日本チームはジーコジャパンのとき)。そのデザインは、いまではドイツサッカーのシンボルにもなっているようにも思う。建設の資金はバイエルンミュンヘンが調達し、その金額は約3億5千万ユーロ(約500億円)だったそうだ。

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カンプノウも約800億円で建て替えを計画中

スペインサッカーの名門、バルセロナにはカンプノウがある。8万人収容のスタジアムにまで拡大されたが、建築から60年近くたち、建て替えが発表された(下の画像)。2015年に決定されたプランは収容10万人規模、ミュンヘンのスタジアム同様、包み込まれるようなデザインだ。中国オリンピックの際に建築された北京のスタジアム(北京国家体育場)なども見ると、包み込むように外界と隔絶するのが最近のスタジアムのトレンドなのかもしれない。
バルセロナの計画では、2017年に着工、2021年に完成予定。総工費は6億ユーロ(約800億円)を見込んでいる。

そしてまた、私たちの国立競技場も建て替えることになったわけだけれど。1960年代に設計・建築された祝祭空間が、2015年のいま、どのようなカタチに生まれ変わるのか、どのような仕組みが備わるのか、僕は非常に注目していた。

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早く、安くできるプランを採用した、日本の新国立競技場

最終コンペで提案された、隈研吾さん擁する大成建設のA案も、伊東豊雄さん擁する竹中工務店はじめ3社JVのB案も、オーソドックスな屋根付きスタジアムのデザイン。どちらも同じようだと思った。

日常から乖離させ、スポーツの興奮をどれだけ沸き立たせてくれるか、どちらが祝祭空間としてふさわしいかという視点で見ると、どちらかというとB案の方かな、と僕は思っていた。

最終的にA案に決定されたが、日経の報道を見てビックリ! デザインの評価よりも工期短縮やコスト縮減に重きが置かれていたからだ。

■委員1人あたりの持ち点
業務の実施方針:20点
コスト・工期:70点
施設計画:50点
合計140点×審査員7人=980点満点

つまり、早く、安くできる方にしたい。施設本体のデザインや機能は二の次だ。という決め方だったわけだ。評価点の配点を見る限りでは。

そして、各項目の審査結果は以下の通り(上記リンク先より)。

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よく見ると、B案の方がデザイン(施設計画)の評価ではリードしている。「ユニバーサルデザイン」「日本らしさ」「構造計画」「建築計画」などで得点を稼ぎ小計は270点。A案は246点。その差、24点。

A案が強みを発揮したのは、コスト・工期の領域。特に工期短縮ではB案に27点もの差をつけて、小計で252点を稼いだ。
それに対してB案は228点、A案との差は24点。デザインで稼いだ得点をはきだし、まったくのイーブンに。
評価を決したのは、結果的に「業務の実施方針」の得点差、8点だったということに。

A案の大成建設グループはもともと旧計画の本体部分を工事を受注予定で、そのための計画を練っていたのでアドバンテージがあった、と日経の記事は伝えている。
ちなみにA案の「整備費」は1489億円。一国のナショナルスタジアムを建築し、その周辺を整備するコストなので、バルセロナのカンプノウとは純粋に比較にならないとは思うけれど、それにしても「高い」という印象は拭えない。

そしてデザインは、“そっちのけ”にされた

確かに、前のハディドさんのプランはいろいろな意味でビックリが多かった。デザインの特異さをはじめ、異様とも思える大きさ、奇抜な構造など、そのすべてに。
「なんだコレ!?」最初見たとき、僕もそう思った。しかし、完成して実際にこの目で見たら納得できるかな、とも思っていた。バルセロナで建設されているサグラダファミリア大聖堂のように、というのは言いすぎか(とはいえ、別のデザインもあるのでは? とも思っていたけれど・・・)。

そうしたデザインプランの難解さに加えて、どんどんふくらんでいく工期と建設費、さらにそれらが決定されるプロセスの不透明さ、担当する部署や責任者の不可解な対応などが社会から批判され、結局、イチからやり直しとなったのは周知の通り。

今回は、まずデザインありきだった前回の決め方からガラッと変わって、総合的な建築計画で争われた。そこで重要視されたのは、工期や建設コストといった、前回に批判が集中した点だ。まさに「あつものに懲りてなますを吹く」という感じ。それが如実に表れたのが、採点の配点といえる。

一方で、デザインは犠牲にされた。そっちのけにされた、と言ってもいい。配点の通り。
そもそもコンペ公示から提出までわずか5か月という短期間で、ろくなデザインができるわけがない。新しい構造や素材があっても、時間とコストに縛られて既存の工法や実績のある手法に頼らざるを得ないのは自明。
さらに、ハディドさんの轍を踏まぬように、思い切ったプランには外部から強烈なブレーキがかけられたことも想像に難くない。
そんなあれこれを考えれば、目の覚めるような良いデザインなんて、今回は望むべくもなかったわけだ。

すべては、
スケジュールに間に合わせるために。
予算内に収めるために。
社会から批判されないように。

そうして、新国立競技場の建設計画が決定された。
いってみれば、今回の決定は、世間の評価といった“お客さま目線”が最優先されたカタチだ。
その一方で、スポーツスタジアムが本来持つべき祝祭空間としてのデザインや機能性は置き去りにされてしまった。TPOが感じられないデザインに、結果的になってしまった。

僕は冒頭に書いたような、ワクワク、ドキドキを感じさせてくれるような、そして日本のスポーツのシンボルとなるような新時代のスタジアムを夢想していた。例えるなら、アリアンツ・アレーナの次世代・日本版だ。
日本にはカーボンや薄膜といった新素材がたくさんある。建築土木の技術も優秀だ。隈さんや伊藤さんといった建築デザインの才能も豊富だ。
これらを結集すれば、2回目の東京オリンピックを象徴するものすごいものがきっとできる、と期待していたのだが。

※Top画像は2012年1月1日、サッカー天皇杯決勝

みんながwinのビジネス環境なんて、幻想じゃないか?

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ワタミ訴訟が和解 渡邉美樹氏「もっとも重い責任は、私にある」

もしかしたら、逆の結果が出ていたかもしれない、“風向き”によっては。と、思いながらこのニュースを見た。 

いま、“アベノミクス”とやらで企業経営はひと息ついているみたいだけど。
また、学生の就職は売り手市場にガラッと様相が変わっているけど。

 この事件が起きた当時のような円高デフレと就職難が今も続いていたら、渡邊社長が和民で行っていたようなブラックな経営手法は、もしかしたら肯定的に取られていたかもしれない。
そうしたら、これほどの和解金や、「責任は私にある」なんてことばが社長自身から出てきただろうか。 

「狂気と正気の境界線はどこか?」と、以前、精神科の医師と話をしていて聞かれたことがある。

「わからない」というのが、僕の答え。 

だって、世の中の価値なんて、ころころ変わる。狂気の人が社会に増えれば、それは社会の共通認識になる。正義になってしまうことだってある。第二次世界大戦のときの日本のように。ドイツのヒトラーの社会のように。 

狂気や正義は、決して絶対じゃない。その時代における社会の価値のひとつでしかない。
だからといって、渡辺氏のブラックな経営手法を認めるわけでは決してない。 

今回の場合、労働者から不当な搾取を行うことで見えない「利潤」を確保し、さらに客からも対価をもらう。
そのようなブラックな収益構造が、渡辺氏というかワタミのビジネスモデルだったわけで、それがこの裁判で明らかになったともいえよう。 

とはいえ。 

客にはより安く、より速く、より快適に。
従業員には自分らしく、最適なワークライフバランスで、しかも満足の報酬を。
株主にはより多くの配当を。 

そんなビジネスって、実現できるのだろうか。どことなく、ウソくさいと僕は思ってしまう。

パリ、“革命遺伝子”の強さ。

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その“とき”は、ちょうどテレビを見ていた。朝起きて画面を見たら「パリが大変なことになっている!」と。チャンネルはNHK。

この大きな事件を日本のメディアは少しも報道しない。報道規制していたのか! などとその後ネットで話題になったけれど、僕が見ている限りではNHKは敏感に対応して報道しようとしていた。

僕がテレビを見始めたのが土曜の8時前後から。NHKではニュース番組の枠内で最大限の時間を使っていたし、その後の生番組では、進行を中断して数分ニュースを挿入していた。通常なら番宣を流す番組インターバルでもニュースを入れていた。

しかし、事件は現地時間の金曜の夜から深夜に進んだせいか、いっこうに現地から新しい情報が伝わってこないらしく、同じ原稿と映像をどの枠のニュースでも繰り返し流していた。
現地時間の深夜、日付が変わるあたりにコンサートホールのテロが鎮圧されたときも、現地の映像などはなく、死者は140人にも及ぶ、とさえ報道されていた。実際は129人だった(その後1人増えた)ことがその後明らかになったので、現地での取材活動でも混乱していたのだと思う。

その後、お昼前後のニュースで、現地の様子が次第に流れ初めて来た。

パリのスタット・ドゥ・フランスでのドイツ代表との親善試合、不意の爆発音で足を止めるフランス代表ディフェンダーのシーン、テロリストに占拠されたライブ会場に響く爆音など、テロの様子が生々しく伝えられるようになり、その悲惨さ、事件の大きさが、問題の深さなど、その輪郭がはっきりしてきた。

中でも目を引きつけたのが、現地の人の冷静さだ。
ついさっき、銃撃音を聞いたばかりのはずなのに、銃弾や爆弾に人が倒れるのを見たり、パリの街角の平和な風景が容赦なく破壊されていくのを目撃したばかりのはずなのに。

「テロは赦されるべきではない」
「私たちはこの暴力と断固として戦う」
「このテロと、イスラムは別に考えなければいけない」
と、マイクを向けられた現場の市民は、怯えた表情ながらも、冷静に話していた。

何という冷静さ、何という知性なんだろう!事件に巻き込まれたのに。
こういうインタビューなので、特筆すべきコメントを抜き出していたのだとは思うけど。

夕方になって、ようやく番組編成にも変化が見られるようになった。
生放送の報道ワイドショー(?)では、コメンテーター役の30代の女性タレントが二人出てきて、

「ヤダ、怖い」
「日本で起きたらどうしよう?」
などと、脳天気なコメントを連発していたので、ついチャンネルを回してしまった。こんなときに時間の無駄だよ、そんなコメント。ディレクターから「視聴者の気持ちを代弁してくれ」などと注文があったのだろうけど。

それにしても、パリ現地の人の冷静さや知性の高さに比べて、日本のタレント(マスコミ?)の幼稚さ、無邪気さがはからずもあぶり出されてしまった。

フランスは、凄い。パリは強い。
普段は「自由・友愛・平等」の個人主義だけど、自分たちの社会=価値観を脅かす敵に出会ったとき、強力な団結力を発揮する。1月のシャルリー・エブド事件のときもそうだった。

それは、革命の歴史を持つ市民たちの底力だ。
歴史的に、彼らは「革命」という手段によって自らの社会を切り拓いてきた。血を流しながらも、挫折しそうになりながらも、市民が団結して手を取り合い、自らの主張や主義を貫き通し、自分たちの社会を実現してきた。

フランス、というかパリの人の強さは、そういう“遺伝子”によるものなんだろうと思った。

ハロウィン、バレンタインを抜く!

すごく前のことだけど、平日に休みを取って横浜・元町に遊びに行ったら、坂上の住宅街でヘンなカッコをした子どもたちが列を作って走り回ってる。

口々に叫んだりして。住宅街のあっちの方に消えていったと思ったら、また現れて、つぎは向こうへ。

なんだろうね、と言いながら見物してた。いま思うと、スヌーピーのワンシーンみたいでかわいかったな。 

※画像は今の風景、出典はここ

あのときは横浜の、それも外人居住が多い山手の一角の光景だったけど、今ではすっかり日本のすみずみまで馴染んじゃって。

先日、千葉の奥の方に行ったけど、コンビニでも飾り付けを売ってた。かぼちゃなら、隣の畑で作っていそうなのに(笑)

「昨年のハロウィーンの経済効果は1100億円に上り、バレンタインデーの1080億円、ホワイトデーの730億円を抜き去りました。すでに、6740億円のクリスマスに次ぐビッグイベントです。そもそもは、9月から11月にかけてのイベント端境期に消費を刺激する起爆剤を、という流通業界の仕掛けによるものでしたが、3.11を契機に強まったつながりを重視する風潮が後押しになった。子供、両親、祖父母の3世代が一緒に楽しめるし、家族もシングルも男性も女性も盛り上がれる。消費のボリュームゾーンの広さがハロウィーンの強みです」
経済効果はバレンタイン超え 2015年「ハロウィン」最新動向

考えてみればハロウィンは、お菓子どころか、お酒は飲んじゃうし、仮装するし、飾り付けちゃうわ、パーティするわ、あれやこれや広がりがすごい。
しかも、自宅から会社まで、商店街からTDLまで、幼稚園から介護施設まで!!

対してバレンタインは基本的にチョコレートで、カップルでまったりとして終わってしまうからね。義理チョコ、友チョコも限界が見えてきた感じだし。

夏が終わってクリスマスまで、流通や観光業界では主立ったイベントがなかったのが悩みのタネだった。そこで業界がこぞってハロウィン商戦を仕掛けていたわけ。

で、ここにきてキャズムを越えた。みんな一気に“神輿”に乗った感じ。このお祭りは、これからもっと盛んになるはず。 

このグラフを見ていたら、心臓の鼓動がどんどん強まってるみたいで、見ているこっちもなんだかドキドキしてきたw

まちの交通安全ポスターなみだった、オリンピックのロゴデザイン・コンペ

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1964 東京オリンピックでは、25万円だったそうです。 

ポスターを作ったデザイナー、亀倉雄策さんへの謝礼。
(あの仕事で25万円は、ギャラじゃなくて謝礼のレベルだと思う) 

今回のロゴのコンペ、賞金が100万円、著作権は大会委員会に帰属。
いまどき100万円なんて、軽自動車も買えないよ。 

約50年前も今も、グラフィックの「デザイン」に対する評価額は大して変わってない気がする。
国立競技場でNGになった、建築の「デザイン」には、監修費とかの名目で十何億円も支払ってるのにね。 

なんかね、「町の交通安全ポスター公募」と意識レベルが同じ感じ。

プロのちゃんとしたデザインが欲しかったら、ちゃんとした「報酬」を設定しないと。

賞金はゼロ、

そのかわり、採用されたら露出1回あたりいくら払いますよ、とかいうインセンティブがあるとか。

ポスターなんて、スポンサー企業1社あたり何千枚も刷るんだろうから、
100円の使用料でもかなりな金額になるはず。
CMでも協賛ロゴで使われるわけだから、その時、1回1000円で設定しても、
放映回数を考えると、けっこういくでしょ。

お金はスポンサー企業が出すわけだから、大会委員会のフトコロとは関係ないし。
今からそういう契約が成立するかは別だけど。 

そういうインセンティブがあるなら、国内外からプロのデザイナーがわしわし応募してくるんじゃないか。 

なにより、グラフィックデザインに対するお役所というか社会一般の認識が低すぎたのが、今回、こんな騒動になった原因の一つだと思う。

※記事はhttp://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01HAT_R00C15A9MM8000/より