タダは、クズと同じ。必要な情報は、お金を払って取得する時代だ。

情報がタダの時代、フリーミアムの時代は終わった。と僕は思う。

だって、タダの情報はくだらない。このあいだのウェルク事件が良い例だ。タダ情報は、広告の提灯持ちでしかない。

ワンちゃん猫ちゃんとかの癒やし系画像のオンパレードにも、そろそろ飽きた。あれも使い回しの既視コンテンツが多くなってきた。そうそう“新鮮”なコンテンツは出てこないんだろうし、出てきたとしても著作権の関係でおいそれとパクって引用してこれなくなったんだろう。

たまに良質な情報があったとしても、広告がウザい。最近はムービー広告をオーバーレイで噛ませるコンテンツもあり、表示に時間がかかったりして、ほしい情報にありつくためのハードルというか僕のストレスがどんどん高まっている。
そのくせ、そのイライラをこらえて見た情報は、どこかで読んだ話だったり、どうでもいい無難な主張に終始していたり。
脱力感だけが残る。

そんな中、ちょっと古いけど、こんな記事が目に止まった。ギョーカイの人もやっぱりそうなんだ、と妙に納得。
 

 

「アドブロック」の世界的な広まりは、広告収入を損なうパブリッシャーの大反発を買っている。だが、クリエイティブ・エージェンシーの重役である著者は、バナー広告がユーザー体験を損ねてきたとし、広告のあり方を考え直すときだと訴えている。

情報源: 広告業界人だけど「アドブロック」を使ってみた結果:「ユーザー体験が劇的に向上して驚いた」 | DIGIDAY[日本版]

 

 

先日、家人が民放テレビのドラマを見ていてブツブツと文句を言い始めた。
ドラマの内容ではなく、コマーシャルの多さだ。最近のドラマは始まってから30分くらいたつとコマーシャルが分厚く流される。ちょうどその時間にさしかかっていて、3分以上たってもコマーシャルが流され続けていた。

9時きっかりとか正時の番組替わりの時間帯は、チャンネルを回されるのを防ぐためにコマーシャルを抑えコンテンツの見どころをギュッと流す。その反動で、番組の中ほどの時間帯になるとコマーシャルがどっと流されるわけだ。

「安いよ安いよ」といって客引きをしてとにかく店に入れさせ、落ち着くまではホステスが2〜3人隣に座って話し込んだりして、そして客が飲み始めて良い気分になってきたら、ホステスも好きな酒をつぎつぎ頼んだり次の客の席にいっちゃったり。そんなキャッチバーと同じやり方ですね(こっちは最後にお金をしこたま払わされるけどw)。

ちなみにわが家のテレビ視聴は最近、NHKが過半を占めるようになっている。
コマーシャルそのものがなくてコンテンツに集中できるし、だからあの不快な“CMまたぎ”も、そのせいで起きる時間のムダもない。
快適そのものだ。それに番組の内容や質も良い。特にETV(昔の教育テレビ)の番組にチャレンジングで面白いものが多い。スポンサーの意向なんか気にしない、スカッとした番組作りが気持ちいい。

そんなNHKの快適視聴に慣れた家人にとって、ムダに長いコマーシャルやあからさまな“CMまたぎ”は不快そのものでしかなかったらしい。
「次からは録画して(コマーシャルを)飛ばして見るわ」と家人も上記コラム主同様、「アドブロック」宣言をしたのでした。

確かに、民放テレビの情報やコンテンツを取得しようと思ったら、コマーシャルもあわせて受容すべきなのは、これは情報の提供サイドとユーザーサイド間での暗黙のルールだった。これまでは。

ただ、そういうビジネスモデルは、そろそろ古くないか。時代遅れになってないか。
ユーザーはもはや受け身な存在ではなく、スマホやネットで自分が欲しい情報を主体的に取得できるようになっている。

いままでは
提供サイド > ユーザー、という図式だったけれど、これが
提供サイド = ユーザー、あるいは
提供サイド < ユーザー、といった地殻変動が起きつつあるように思う。

これまでは提供サイドに主導権があったが、「だったらオレはこっち見るからいいよ」とユーザーサイドの選択肢が広がっている。
相対的に、そこで消費される情報やコンテンツの価値も絶対ではなくなってきている。
コンテンツはもはや過当競争、民放のバラエティ番組なんか良い例だ。

そんな状況で、ユーザーにとって邪魔でしかないアドを差し込んだら、ただでさえ相対的に低下しているコンテンツの価値をさらに下げるだけだ。
ないしは、「それでも見たい」という気持ちを起こさせるコンテンツを提供サイドは制作するべきだと思うが、いまの提供サイドにそれができるほどの余裕があるんだろうか。これはテレビに限らず、ネットの業界でも同じだ。

上記コラム主は提供サイドの立場から、だからこそアドの再定義が必要だと訴えている。

僕はユーザーサイドの立場になって、こう思う。
いまの時代、タダはクズと同義だ。必要な情報は、金を払って自分のモノにしよう。
タダの民放番組より、有料のNHK番組の方が快適で良質なように。これはネットも同じだ。

同じようなことを以前もいろいろ書いていた。よっぽどフリーミアムがキライなんだな(笑)

無料→広告でマネタイズ、はもう限界でしょ。ウェルク事件で改めて思うこと。

「無料」は何も生まない。それどころか、世の中をどんどんつまらなくしている。

「この世界の片隅に」と「えんとつ町のプペル」と、インターネット

「この世界の片隅に」を見た。遅ればせながら。

映画の賞を取って、何より興行成績も上々、
『「この世界の片隅に」片渕須直監督、ブルーリボン賞監督賞に アニメ映画で初』
この勢いで、声優を務めた「のん」さんに対する芸能業界からの理不尽な締め付けもなくなればいいんですけどね。

ストーリーはいろいろ感想があって長くなるので別の機会におくとして、
この映画は、クラウドファンディングによる資金で制作されています。

製作委員会の報告ページによれば、このアニメ映画の制作に関して、
3,374人のサポーターが、
39,121,920円を出しています。

で、映画のラストでそのサポーターの名前がずらっと出てくるわけ。そのテロップを見て、あ、そういう経緯もあったんだよな、と思い出す。
個人の名前から、2ちゃんのハンドルネームみたいなのとか、顔文字使ってる人とか、
会社名や店名、大学のゼミとか、はては神社とか、そういう団体も。

そういう市井の人たちの善意や熱意みたいなものが、スクリーンに映る文字ひとつひとつから湧き立ってくるみたいだった。
こういう人たちの気持ちに支えられて、この優しくてたくましくて楽しい物語が紡ぎ出されたんだよな、と実感した。
ホント、良かったね。クラウドファンディングできる、こういう時代になって、と思ったんだ。

この映画鑑賞と前後して、キンコン西野の「お金の奴隷解放宣言」もネット上で大騒ぎになっていた。

20万部以上を売り、絵本としては異例のヒット作となった「えんとつ町のプペル」の電子書籍を無料公開するという内容。
「無料公開」「無料化」というコトバが先走ったけれど、要はPDFをタダでダウンロードできるという、タダそれだけのこと。1冊2,000円もする絵本はそのまま販売する。

もともと絵本=絵画作品に近いものとして制作されているし、印刷も多色刷りで凝っているらしいから、はやり紙の本で見ないと本当の価値は分からないだろう。
一方、電子書籍の方は、その中身は単なる画像化だから、色の質感なんて見るパソコンモニタのサイズや表示品質でころころ変わる。単なる内容確認のためのメディアでしかない。そんなものに本来的な価値はないからタダで配ってしまえ、宣伝にもなるし、ということだと思う。

ただ、それを告知するブログの「お金の奴隷解放宣言」というタイトルがちょっと刺激的だったし、「無料」というコトバに釣られて“クリエーター”を名乗る人たちがいろんなブーイングをかまして炎上したみたいだけど。
『キングコング・西野さんの絵本無料公開を批判するクリエイターは、今後確実に食えなくなる。』

僕の感想としては、電子書籍は色とかの品質に問題があるとはいえ、それを無料にすることによって作品に触れられるチャンスが広がり、結果的に制作者の利益にもなるなら、良いんじゃない。ということ。また次、作品が作れるしね。
上のコラムにも書かかれていたけれど、YouTubeの無料のムービークリップでライブのシーンとかを見せて、リアルのライブイベント来場に誘導するのと、大して変わらない戦術だし。これを否定するのは、いまを否定するのと一緒。

で、今日の結論。
インターネットって、こんなふうに人の力を集め、ポテンシャルを広げるためのツールだったよね。
「この世界の〜」みたいにお金を集めて映画を作って、それによって感動を共有したり、
「プペル」のようにみんなと作品をシェアしたり、それによって制作者自身も制作費を稼いだり。

ちょっとくさいことを言うと、夢を実現したり、時空を越えて多くの人と同じ気持ちになったり、自分の可能性を広げたり、そんなエンハンスのメディア。それがインターネットじゃなかったっけ。「インターネット黎明期」、みんなでそんな理念を発見し合ってなかったっけ??

それをDeNAのウェルクとか一部の人間が、「インターネット錬金術」を始めてしまった。
インターネット上にヘンな仕組みを自分たちで作り上げて、そこから直にカネを吸い上げることを始めてしまった。
でも錬金術はしょせん、錬金術。本当に「金」を作っていたわけではないから、メッキがはがれて頓挫してしまったけれど。

インターネットはあくまでもメディアでしかない。その本来的なポリシーをしっかり踏まえて仕事していかないとな。ヘタをすると自分もDeNAのように“ダークサイド”に落ちちゃうよ。
これが、「この世界の片隅に」を見終わったときの最終的な感想なのでした。

※サムネイル画像はhttp://konosekai.jpより

「私の父はAirbnbに殺された!(クーリエ・ジャポン)」スタートアップは、いつまで甘ったれるつもりか。

手頃な宿泊施設の検索サイトとして、また不動産を活用した新たなサイドビジネスとして、日本でも話題の「Airbnb(エアビーアンドビー)」。創業から8年ほどで、ヒルトン・ホテルズ&リゾートの時価総額を超えるほどの急成長を遂げたこのサービスが、実は傷害、死亡、盗難、火災などのさまざまな事件を引き起こしていることはあまり知られていない。 Airbnbで予約した民家に滞在中、父親を事故で亡くした筆者が「シ…

情報源: 「私の父はAirbnbに殺された!」急成長サービスの“死角”を被害者の息子が暴く! | クーリエ・ジャポン

ちょっとセンセーショナルな見出し、それに事件自体が公になったのは2年前のことなので恣意的な感じがしなくもないけど、内容自体は同意。

IT系のスタートアップも、そろそろ甘ったれたことをいうのはやめて、社会の一員として襟を正した方がいいと思うんだ。
例えばこの記事の、こんなくだり。

「シェアリングエコノミーのスタートアップは、提供するプラットフォームが受け身で、かつ負う責任が少ないほど成長します。
たとえば、サービスの安全性を保証すればするほど、企業側の負担は高まります。反対に旧式の出会い系サイトのような必要最小限のプラットフォームを運営するだけなら、企業のリスクは少なくて済みます」

「負う責任が少ない」ということは、言い替えれば「無責任」だ。
冒頭の事故は、宿泊施設として貸し出したオーナーの安全に対する無責任(あるいは無自覚)、それをそのままプラットフォームに載せたAirbnbの無責任が複合連鎖して起きた悲しい事故だと思う。

無責任のまま安全を担保しないのであれば、それは安くサービス提供できるだろう。だから既存ビジネスよりも圧倒的に優位に立てたし、これまでにないビジネスモデルだから法整備なども追いついてなかった。なので“合法的”に、連勝し続けることができていた。

小さくて“みそっかす”扱いのちっちゃな子供が、大きなお兄さんと一緒に野球をやっているようなものだ。
打席に立って、バットにボールが当たりさえすれば出塁できた。みんな「良くやった」って言ってくれてた。

でもそろそろ違うんじゃないか。もう“みそっかす”じゃないんじゃないか。
空振りを3回やればアウト、バットに当ててもボールがヒットコースに飛ばなければ出塁できないとか、一人前の扱いでいいんじゃないか。そうじゃないと、お兄ちゃんバッターが可哀相だ。フェアじゃない。

Airbnbはサービスを続けるなら制度をもっと整備すべきだ。ヒルトン以上にふくらんだ時価総額を、その整備に費やすべきだ。ヒルトン並みとは言わないが、一つひとつの宿泊施設を人の目でチェックし、そのオーナーとも面談し、一定の基準で評価した後に、ユーザーに紹介すべきだ。

コストがかかる?人手がない? そんな甘ったれたことをいつまで言い続けるつもりなのか。
既存の企業ならみんな辿ってきた道だ。実績ある企業が社会の一員として果たしている義務や責任を、もうそろそろプラットフォーム提供者も同様に負うべきだ。

スタートアップのビジネスモデルはより生活に密着しようとしている。ともすれば生命の安全に関わる領域にも及んできている。実際、Airbnbでは死亡者が出ているし、交通社会をベースにするUberはもっと危険度が高い。

いつまでも“みそっかす”感覚でサービス提供されていたのでは、たまったもんじゃない。
今のままでは少しの安い料金とひきかえに、自分の命を差し出しているようなものだ。

というわけでAirbnbはまだまだ使えないシステムだ、というのが僕の判断。頑固者とか頭固いとかいわれようが。
Uberも同じだな。

無料→広告でマネタイズ、はもう限界でしょ。ウェルク事件で改めて思うこと。

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「ウェルク」がようやく公開停止になったけど、どうもデジャブ感があって。それがテレビの「発掘!あるある大事典」って、思い出した。

●みんな気になる(=アクセスや視聴率が期待できる)医療ネタで
●データ捏造や無断引用などでいいように煽って
●アクセス数や視聴率を稼ぎまくり
●そのわりに制作費はとことんチープに抑えてウハウハ儲け
●最後は炎上でお蔵入り
といったあたりが共通点かと。それにしても似すぎでしょ。

メディアが、読者や視聴者ではなく、広告主やスポンサーに向かってコンテンツを作るとこう末路を辿る、という法則じゃないか。他山の石だ。

それと、無料コンテンツ→スポンサーフィーでマネタイズ、という点も「ウェルク」と民放地上波の共通したビジネスモデルだけど、これも、もはや限界なんじゃないか。今の経済システムではムリだよ。

「無料」は何も生まない。それどころか、世の中をどんどんつまらなくしている。あらためて思ったよ。

どうせ出し抜くなら、金融シーンの方がビッグで潔い感じ(?)

マイケル・ムーアの宣戦布告「大統領選挙に負けた今やるべき5つのこと」

一つ目は「民主党を乗っ取ろう」

情報源: マイケル・ムーアが投稿した「選挙に負けた今やるべき5つのこと」、16万人以上がシェア

そんなマイケル・ムーアは投票前に、こんなことを言っていた。
『マイケル・ムーアも焦ってる。「ドナルド・トランプに投票するのは合法テロだ」』

現状にどれだけビビッドに反応するか。
さすがドキュメンタリーの作家だなぁ、と。

ちなみに彼が言った5箇条の骨子は次の通り。

1. 民主党を乗っ取ろう。

2. 評論家や予想屋、世論調査員、その他メディアの中で、実際に起こっていることに目を向けようとしない奴らを首にしよう。

3. これから始まる野蛮や狂気を止められる術を知っている奴らを、俺たちのリーダーにするんだ。

4. 「驚愕の結果だ」とか「ショックだ」と嘆くのをやめよう。民主党・共和党の両方に無視された人たちの、既存のシステムに対する復讐心や怒りが大きくなっている。

5. 得票数は、ヒラリー・クリントンの方が多かったんだ!

つまり、起こった現実を見すえて、理想に向けて戦いを始めるんだ、と。これはその宣言だ。
いっそのこと、マイケル・ムーアが民主党の党首になった方がいいんじゃないか。

こんな本が売れているみたいです。

うなぎCM問題で、地域おこしムービーの名作「ンダモシタン小林」を思い出した!

スク水少女が「養って」 クリエイティブは難しい。センスの良い発想なんて誰にでもできるものではないし、アイディアを絞り出した挙句に二番煎じになるのはよくあること。これだと思ってつくりあげたものが、完全にスベることもある。 限られた予算の中、地方自治体をPRするた

情報源: うなぎCMを「性的な意図はない」と説明する制作者の“ピュア” – 網尾歩

うなぎをスク水女子にしたらウケるんじゃね? っていうのがこのクリエイティブのスタートだと思う。
意外性があって乱立する地域おこしムービーの中でも目立てそうだし、それにスク水は普段うなぎに興味なさそうなクラスタからもウケそうだし、いいんじゃないの、と。

ただメインテーマのうなぎよりも、単なるフックでしかないスク水の記号性を強調しすぎたために、全体を見た印象として“外しちゃった”作品になってしまったんじゃないかな。
平たいコトバでいうと、悪ふざけが過ぎちゃった、みたいな。ムービーを見ていなくて、内容をこの記事のテキストでしか読んでないので断定はできないけど。

このムービー制作をしたクルーや自治体の担当者は、去年の夏に問題になった三重の海女さんキャラを知らなかったのかな。萌えキャラにし過ぎて、海女さんを侮辱していると問題になり、取り下げになってしまった件だ。

カワイイとか萌え〜とかオタク文化が広まってきたけれど、それが日本全体の共通認識になったわけではなく、まだ拒否反応を示す人たちもいる。そんな例が海女さんキャラ問題だったと思う。
そういった現実を認識していれば、このうなぎムービーもここまで過剰に“狙った”演出にならなかったと思うんだけど(そうしたら、スク水の表現テーマもなかったかもしれない)。

このうなぎムービー騒動で、当事者の志布志市の近く、宮崎県小林市が作ったムービーを思い出した。
フランス語のナレーションで進む映像と美しいピアノの旋律で、なんか素敵な田舎町だなぁと思いながら見ていると、ラストに楽しいどんでん返しがあって、小林市の良さがとても印象に残る。

地域の方言をフランス語に転化するというアイディア、その不思議な言葉と映像、音楽の絶妙なハーモニーで、メインテーマの小林市の風土をとっても魅力的に見せている。これがクリエイティブっていうものでしょう。
名作だ、制作者に拍手!!

ホリエモンの「大学ムダ論」で思いだした、ICUのリベラルアーツってどうよ

「大学に行くのはお金と時間のムダ」と題したホリエモンのインタビュー記事が、ネット上で物議を醸している。せっかく合格した東大を中退しているホリエモンだが、「そもそも大学にはほとんど通っていなかった」のだとか。さらに東大を含めて、ほとんどの日本の大学は「実務的に使

情報源: ホリエモンの「大学ムダ論」を、ふかわがフォロー 「大学に行けばなんとかなるっていう甘えた考えにムチを打ちたいっていうこと」

これを読んで、少し前に大学受験関係者とした会話を思い出した。
「ICUのリベラルアーツって、ムダじゃないですか」と、僕がその人に対して言ったのだ。堀江さんみたいに。

リベラルアーツは、言ってみれば人が生きていくために必要な知識を学ぶ、ヨーロッパ古来の大学教育の考え方。詳しくはウィキペディアを参照。

で、話していた相手は大学受験情報を提供している人。
最近の受験生の親は、大学入学後、きちんと就職できるか、いわゆる“良い企業”に入社できるか、を「受験校選びの基準」としている。なので、そのための教育や指導を進めている大学が好まれる傾向にあるんじゃないですか、という話をしていた。

そういう親から見たら、リベラルアーツを“売り”としているICUは、単なる「回り道」でしかない。
実際に同大学の人も「ICUのリベラルアーツはいわば、自分が歩む道を探すための手段のひとつ。この大学で自分のやりたい道を見つけ、その後ケンブリッジに行って法学を学び弁護士になったり、医学部に進んで医者になったり、そういう人がけっこういます」とのこと。

これを聞いていて「おいおい、それじゃ2つも大学に通わせるのかよ」と思った、正直なところ。

大地にきちんと肥やしを撒いて、土壌を豊かにしてから、それからしっかりとした木を植えて、育てましょう。ということなんだろうと思う。ICUの大学教育は。
その方が、しっかりと根が張って、大きくがっしりとした幹に育ちそうな気もする。

でも、いまの時代、そこまで時間と手間とお金をかけられる人はそう多くはないだろうし。
自分の興味を追求したいなら、それこそ大学のセミナーや本などでもカバーできそう。

急がば回れ、というけれど。
急ぐなら、新幹線だって飛行機だって選べるぞ、というのが現代社会。

どっちがいいんだろう。僕には答えが出せていない。

ちなみに、堀江さんの最近の本

ピンポイントなCM。【三井のリハウス】「おばあちゃんの家」編

作るのが難しかっただろうな、と思えるCM。

だって、死んだ親の家を売ってください、なんて、とても生臭い話。
“清く明るく正しく” が求められるCMとは対岸にあるようなテーマ。

それを、
「死んだおばあちゃんが登場する」という、ひとヒネリしたストーリーと
「樹木希林さん」という希代の名女優で解決した。

特に希林さんの演技は良かった。

スタートはコミカルで楽しい演技。へそくりを現世の孫にぽいっと渡したりして家族との深い絆を感じさせる。

そしてキメのセリフ「家ってね、人が住まないとダメになっちゃうからね」のシーンでは凜と背筋を伸ばして、正論を伝える。
あえて横顔。
正面からだとメッセージが強くなりすぎ、時として反感を買ってしまう。

このセリフで、おばあちゃんが住んでいた思い出深い家を売ろうかどうしようか迷っている人に、その決別の意義をキリッとした表情で伝える。
見ていてつい、「そうだね」「人が住まなくなった家は次の人に託した方がいいよね」って僕は納得してしまった。制作者の思うツボ(笑)。

コミカルな表情から深みと説得力のある真摯な表情まで、守備範囲の広い演技。希林さんの名演技なくしてこのCMは成立しなかっただろう。希林さんあってのCM企画。代案はどうしたんだろう、なんてつい余計なことを考えてしまった。

登場人物にいっぺん死んでもらうという演出、そして希林さんの名演技。このピンポイントのような企画で、とても難しいテーマ設定を見事にクリアしCMとして成立させた。制作者の手腕を感じるCMだ。

あれが良い質問だったなんて、いくらなんでも我田引水が過ぎる。

リオオリンピックが大変なメダルラッシュということでマスメディア各局は大喜びです。テレビは軒並み高視聴率。ネットニュースのアクセス数も好推移し、関係者たちはホクホクなのだとか。そんな中、体操の内村選手への下記インタビューに対して、大きなバッシングが起こっています

情報源: 海外メディアが内村選手に「失礼な質問」をしたって?いや、それは完全に逆です。

と、長谷川さん。そして、こんな感じで続けます。

どこの国の記者の質問かは分かりませんが、彼の質問によって

・内村選手は反論の機会を得て
・2位・3位の選手がどれだけ内村航平という選手をリスペクトしていて
・彼らの受け答えから、彼ら3人の競技以外の側面・人間関係まで垣間見えた

気はしませんか?

スポーツとか、スポーツマンの本質をあぶり出すのに良い質問だった、グッジョブだったと。

でもそれって、結果論じゃないか。我田引水が過ぎるんじゃないか。

スポーツの世界にも人種差別的なことを言う人はいまだ残っていて、テニスの錦織選手もアジア人ということで失礼な質問をされることがあるという。白人優位のF1レースで、ブラジルからやってきたアイルトン・セナが冷遇、蔑視されたのは有名な話だ。

「今回は白人選手が勝つチャンスだったのに、アジア人のあなたが優遇されてるせいで優勝できなかった」
今回の、内村選手への記者会見で、記者のそんな気持ちがあったんじゃないか。
長谷川さん、指摘するなら、そっちの方だと僕は思うよ。

「Apple Motors」ができる?

アップルの売上げが低迷しているそうだ。
いくらアップルでも打ち出の小槌じゃないんだから、そういつまでも新ネタを出し続けることはムリだろう。投資家は期待し過ぎ。

それより「自動車に照準」という小見出しが気になった。
記事によれば、自動車開発ができるくらいの広大な敷地を用意し自動運転の電気自動車を開発、2020年以降に開発完了予定で、鴻海と組んで製品化するのではないか、とある。
そもそも、iPhoneなど家電製品しか作ったことのない鴻海に自動車が作れるんだろうか?

僕が気になったのは販売チャネル。
自動車だと、さすがに通販で、というわけにはいかないのではないか。でも、もし通販でヤルとしたら、それはどんなスタイルになるんだろうか。商品=クルマをどう客間で届け、基本的な注意事項や使用上の注意などのインスペクションはどうやるのか。

これまで通りリアル店舗で販売するとなると、新たに「Apple Motors」を興すのか。それとも既存のアップルストアのチャネルを活用するのか。
いずれにしても、これまでとはまったく違う販売スタイルになりそう。というか、Appleのことだからつい期待してしまう。

またクルマは車検などのメンテナンスが必要となるけれども、それはどのような対応をするのか。Appleが自前で整えるとは思えない。どこかの自動車サービス会社と組むのではないか。日本には、MacintoshのAppleのほかに車検や整備の「Apple」という会社もあるけれど、そこと組んだらおもしろいな、などなど。

iPhoneがコモディティ化するのはかねてよりの既定事項。なので、Appleは全力をかけて次のビジネス=自動車開発に専念するはず。その開発と販売は既定事項だと思う。
いずれにしても、これまでとはまったく違うパラダイムの「自動車」になるはずで、その際は売り方やサービス方法なども、Apple流に変えてくるのではないか。