無料→広告でマネタイズ、はもう限界でしょ。ウェルク事件で改めて思うこと。

welq__%e3%82%a6%e3%82%a7%e3%83%ab%e3%82%af____%e3%82%b3%e3%82%b3%e3%83%ad%e3%81%a8%e3%82%ab%e3%83%a9%e3%83%80%e3%81%ae%e6%95%99%e7%a7%91%e6%9b%b8

「ウェルク」がようやく公開停止になったけど、どうもデジャブ感があって。それがテレビの「発掘!あるある大事典」って、思い出した。

●みんな気になる(=アクセスや視聴率が期待できる)医療ネタで
●データ捏造や無断引用などでいいように煽って
●アクセス数や視聴率を稼ぎまくり
●そのわりに制作費はとことんチープに抑えてウハウハ儲け
●最後は炎上でお蔵入り
といったあたりが共通点かと。それにしても似すぎでしょ。

メディアが、読者や視聴者ではなく、広告主やスポンサーに向かってコンテンツを作るとこう末路を辿る、という法則じゃないか。他山の石だ。

それと、無料コンテンツ→スポンサーフィーでマネタイズ、という点も「ウェルク」と民放地上波の共通したビジネスモデルだけど、これも、もはや限界なんじゃないか。今の経済システムではムリだよ。

「無料」は何も生まない。それどころか、世の中をどんどんつまらなくしている。あらためて思ったよ。

どうせ出し抜くなら、金融シーンの方がビッグで潔い感じ(?)

Googleのためにコンテンツ作ってるわけじゃない〜ウェルク閉鎖で思うこと

ウェルク炎上が暴いた劣悪メディアの仕掛け なぜニセ情報が大量の読者を獲得したのか

情報源: ウェルク炎上が暴いた劣悪メディアの仕掛け | メディア業界 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

“ココロとカラダの教科書”をうたったエセ医療情報サイト「ウェルク」が閉鎖になった。
私も仕事で医療コンテンツの制作をしてるので、いい加減な方法でいい加減に作られたサイトが閉鎖されたことに関して、スッキリとしている。

ウェルクはモバゲーなどで有名な一部上場企業、DeNAの運営。
ランサーズなどのクラウドソーシングを利用して“ライター”と称する人たちにハイパーローコストで「記事」と呼ぶテキストの塊を制作させる。「記事」には、事実よりもGoogleの検索エンジンが好むようなキーワードを羅列することが優先され、それを大量にばらまくことでトラフィックを稼ぎ、広告媒体としての価値を高め、マネタイズする。というビジネスモデルだった。

こう書くと、DeNAは単に金儲けのためだけにこのサイトを運営してきた、というのがよく分かる。
読者に対し、その興味に応えたり、悩みや課題を解決に導くための情報(しかも正確な情報)を提供する、ということがメディア本来の「価値」であるはず。それなのに今回の場合は、単に広告媒体としての価値が最優先され、そのために「記事」は読者よりもGoogleの検索エンジンをターゲットとして書かれていたわけだ。
Googleのサーチエンジン・オリエンテッドなテキスト作成、とでもいうか。

僕がムカついていたのは、この点ですね。
僕は仕事でテキストを起こしたりコンテンツを制作しているけれど、Googleばかり相手にしてるわけじゃない。その向こうにいる読者のためになったり、少しでも楽しい気分になって欲しいからやっているわけで。
それなのに、「見出しは○○文字以内で」とか「最後に必ずまとめを書いてください」とか、そのコンテンツには場違いな要求をしてくる訳知り顔の人が、ことのところものすごく増えた。この前なんて「僕はGoogleのために文章書いてるわけじゃないですから」って、発注先の人と揉めたりしたことも。

もちろん、SEO対策の必要性や検索上位になる価値も分かっているつもり。でも、そのことがコンテンツ制作の目標になっていないか。情報の正確性や読者への影響力よりも重要視され、「メディア」としての役割やスタイルがだんだん歪められてきていないか。ウェルクは、その最たる例だ。

メディアって何だっけ? 僕らは何のためにコンテンツを作るんだっけ?
ウェルクの一件が、みんなで考え直すきっかけになればと思う。

僕は、Googleのためにコンテンツ作ってるわけじゃないからね。

「創る」という行為は、理論なんかじゃなくある意味「狂気」だと思う。それがよく分かる作品

パリ、“革命遺伝子”の強さ。

image

その“とき”は、ちょうどテレビを見ていた。朝起きて画面を見たら「パリが大変なことになっている!」と。チャンネルはNHK。

この大きな事件を日本のメディアは少しも報道しない。報道規制していたのか! などとその後ネットで話題になったけれど、僕が見ている限りではNHKは敏感に対応して報道しようとしていた。

僕がテレビを見始めたのが土曜の8時前後から。NHKではニュース番組の枠内で最大限の時間を使っていたし、その後の生番組では、進行を中断して数分ニュースを挿入していた。通常なら番宣を流す番組インターバルでもニュースを入れていた。

しかし、事件は現地時間の金曜の夜から深夜に進んだせいか、いっこうに現地から新しい情報が伝わってこないらしく、同じ原稿と映像をどの枠のニュースでも繰り返し流していた。
現地時間の深夜、日付が変わるあたりにコンサートホールのテロが鎮圧されたときも、現地の映像などはなく、死者は140人にも及ぶ、とさえ報道されていた。実際は129人だった(その後1人増えた)ことがその後明らかになったので、現地での取材活動でも混乱していたのだと思う。

その後、お昼前後のニュースで、現地の様子が次第に流れ初めて来た。

パリのスタット・ドゥ・フランスでのドイツ代表との親善試合、不意の爆発音で足を止めるフランス代表ディフェンダーのシーン、テロリストに占拠されたライブ会場に響く爆音など、テロの様子が生々しく伝えられるようになり、その悲惨さ、事件の大きさが、問題の深さなど、その輪郭がはっきりしてきた。

中でも目を引きつけたのが、現地の人の冷静さだ。
ついさっき、銃撃音を聞いたばかりのはずなのに、銃弾や爆弾に人が倒れるのを見たり、パリの街角の平和な風景が容赦なく破壊されていくのを目撃したばかりのはずなのに。

「テロは赦されるべきではない」
「私たちはこの暴力と断固として戦う」
「このテロと、イスラムは別に考えなければいけない」
と、マイクを向けられた現場の市民は、怯えた表情ながらも、冷静に話していた。

何という冷静さ、何という知性なんだろう!事件に巻き込まれたのに。
こういうインタビューなので、特筆すべきコメントを抜き出していたのだとは思うけど。

夕方になって、ようやく番組編成にも変化が見られるようになった。
生放送の報道ワイドショー(?)では、コメンテーター役の30代の女性タレントが二人出てきて、

「ヤダ、怖い」
「日本で起きたらどうしよう?」
などと、脳天気なコメントを連発していたので、ついチャンネルを回してしまった。こんなときに時間の無駄だよ、そんなコメント。ディレクターから「視聴者の気持ちを代弁してくれ」などと注文があったのだろうけど。

それにしても、パリ現地の人の冷静さや知性の高さに比べて、日本のタレント(マスコミ?)の幼稚さ、無邪気さがはからずもあぶり出されてしまった。

フランスは、凄い。パリは強い。
普段は「自由・友愛・平等」の個人主義だけど、自分たちの社会=価値観を脅かす敵に出会ったとき、強力な団結力を発揮する。1月のシャルリー・エブド事件のときもそうだった。

それは、革命の歴史を持つ市民たちの底力だ。
歴史的に、彼らは「革命」という手段によって自らの社会を切り拓いてきた。血を流しながらも、挫折しそうになりながらも、市民が団結して手を取り合い、自らの主張や主義を貫き通し、自分たちの社会を実現してきた。

フランス、というかパリの人の強さは、そういう“遺伝子”によるものなんだろうと思った。

出版社テロに、メディアが団結して100万部増刷で抗議。フランスは大人の国だと思った。

image

Liberte・Egalite・Fraternite(リベルテ・エガリテ・フラテルニテ)
自由・平等・友愛

フランスといえば、この3つの言葉だ。18世紀のフランス革命で掲げられたスローガンで、以来、フランスを形容するキーワードにもなっている。いわば、この国のコンセプトだ。
ドイツの正確さ、陽気なイタリアなど、特定の形容詞を持つ国はいろいろあるけど、こんなに具体的なコンセプトワードを持っている国も少ないんじゃないか。

個人主義の国で、例えば事実婚が多いとか、移民が多くて国内がバラバラだとか、実は社会主義なのでこのコンセプトとは矛盾してるじゃないか、などなどふだんはいろいろ言われてきた。

でも、このニュースを見たら、言葉は悪いけどカッコイイとさえ思った。

このページに

、つぎのようなニュースが。
>偉大なスタッフをなくしてしまったシャルリー・エブドですが、

>次の週の出版も宣言しており、普段は6万部しか出版しないところを

>100万部出版する、というとんでもない計画もスタートさせています。

>前代未聞の大量出版を成功させるため、Googleが出資した

>独立系カルテルのDigital Press Fundから

>25万ユーロ(約3500万円)の寄付を受け、

>他にもル・モンドやフランス・テレビジョン、

>ラジオ・フランスといったフランスの著名メディアからも

>金銭面でのサポートが入る見込み。

>さらに、配給関連の業者は出版時に発生する印刷代や紙代を

>無償にすることでシャルリー・エブドをサポートする予定、とのことです。

メディアといってもふだんは主張の違いがあったり、立場も違っていたりで互いに相容れないだろうに。
でも、いざとなったら、瞬く間に団結してしまう。
大人だな。文化が成熟しているんだと思う。

これが日本だったら、ウチはあそこまでやらないから関係ないとか、ヘンに金を使ったら株主代表訴訟されるとか、んにゃんにゃ言いながら結局、効果的なアクションは起こせなさそう。

これが、フランスの底力だと思った。

※画像はhttp://www.charliehebdo.fr/index.html より

いろんな情報に接して、活用したいなら、画面はやっぱり大きい方がいいと思う。

朝日新聞から日経に、今月から新聞を替えます。
朝日は例の事件でいよいよ購読中止しようと思ったけど、契約が残っていたので来月まで継続することに。
ちなみに、前の社長の辞任会見直後に謝罪のチラシが折り込まれ、そのすぐ後に契約継続を勧める販売員が来てた。「組織プレー」の感じがしないわけではなかったけど。「やめる」と言ったら、他にもそんな家がたくさんあったらしく、そのまま帰って行きました。
販売店はとばっちりを受けただけなのに大変だなぁ、と思ったり。
この際だし、それに来年から子どもの就活が本格化するので日経に切り替えよう、と。
でも、当分は新聞を止める気はない。
だって、画面サイズが広いから。
ケータイ < スマホ < タブレット < PC
の順で画面サイズが大きくなるけど、これって、情報の取得しやすさ、理解度の順でもある、と思ってるわけで。
ケータイの画面は、情報を得る「窓」としては本当にミニマムサイズ。なんとか参照できる小ささだった。ともすると何回か読み返さないと納得できなかったり、別の情報にアクセスして深掘りしようという気も起こらないし。
このままケータイ使ってたら、アホになる。自分のためにならない。って思ってたらiPhoneがでたので、さっそく替えた。
でも、iPhoneの画面でも小さい。ギャラクシーで「ファブレット」サイズが出たり、iPhoneも「6」になって画面がグンと大きくなったけど、それでも画面が小さい。
手元にiPadがあればそれを見るし、PCを開いたり、さらに事務所だったらiMac27がやっぱり見やすい。分かりやすい。仕事しやすい。
で、見やすさの最終兵器っていったら、やっぱり新聞のサイズだと思うわけ。
電子端末のようにインタラクティブ性はないけど、その代わりに広い画面ならではの一覧性がある。自分の欲しい情報だけでなく、その周辺の情報もいろいろ目に入ってくる。
就活のトレーニングとしては、そんな多種の情報に日々触れておくことは大事。
受験期には子ども新聞を読ませていたし。そのせいか、社会の点は良かった。
画面サイズが大きくなるほど、情報に対して能動的になるように思う。
「スマホばかり見てると、かえって情弱になる。PCやiPadも使うように」って子どもには言ってる。
※画像はhttp://www.sankei.com/life/photos/150102/lif1501020013-p6.html より

テレビが面白くなった理由は、「いま」が見れなくなったせいだと思う。

image
ちょっとキャッチーなタイトルだな、とは思いつつも「そうなんだよ」と、ポチッとクリックして読み進めました。
わが家の場合、週末のゴールデンタイムなのに、見たい番組がない。子どもと一緒の食卓なので、みんなで1〜2時間、一緒に楽しめる番組があればいいだけなんだが。
バラエティにしても、お笑いにしても、もはや既視感のある番組しかやっておらず、あわせていても音がうるさくて邪魔なだけ。なので、結局、NHKに行ったり、BSやCSのスポーツやライブ、あるいは録りためた映画など。ときにはゲーム機経由で通信カラオケやってたり。
テレビというメディアは、「いま」を「お茶の間」に見せてくれるメディアだと思うんだ。ニュースとか流行っている歌とか人気の俳優のドラマとかスポーツの試合とか。
それが、しだいに「数字」という呪文に縛られ、特に民放の場合、「過去に数字の良かった番組の焼き直し」が多くなった。
どのチャンネルを回しても、同じ顔ぶれ、同じ内容。いまが見えず、既視感のある番組。
テレビ番組がつまらなくなった原因のひとつだと思う。
スポンサーシップによる無料放送の限界なんじゃないか。
いま、「いま」を見るならニコ動とかニコ生、YouTubeが面白いしね。
※画像はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/テレビ より

「知恵ある人」だからこそ。

image
福島原発事故の検証番組ですね。解釈によっては原発否定にも、あるいは事故当時の生検だった民主党批判にも取れる番組なので、衆議院選挙後のこの時期になったのか、なんて勘ぐりながら見てたり。
時間が経ったことで出てきたデータや事実、実験結果などをもとに、事故当時の問題点を探っています。放射性物質の大量放出のデータや、その状況を再現したアニメーションは、ちょっとショッキングでした。
でも、「結局、使う人間の問題だよな」と。
“原発安全神話”を作り出し、対策をないがしろにした設計、運用の誤謬だよな、と。
同じような人がいまも職に就いているらしいけど、果たして、そういった根本的な姿勢は変わったのか、何だかとっても疑問。
例は違うかもしれないけど、クルマの日産が長年赤字を垂れ流し続けてもなかなか組織改革できず、結局、外部からカルロス・ゴーンさんを招聘して生まれ変わった。あれと同様に、例えばレギュレーションを決めるなら、アメリカやフランスなどの外部の識者に加わってもらうとか、運用も同様にするとか。そのくらいの“荒療治”が必要なんじゃないか、と。
僕は、原発はあってもいいと思う。確かに、この番組でも明らかになったように、未知の領域が多く、危険な技術。ハイリスク・ハイリターンなエネルギーともいえる。
だけど、危ないからといって、ここまで開発してきたことを捨ててしまうのもどうか、と。
僕らが小さい頃、まだ小学校でえんぴつを使ってた頃、えんぴつを削るボンナイフは危険だ、ということで学校や家庭でいっせいに使用禁止になった。そのおかげでナイフはおろか包丁も使えない子どもが増えて、例によって「最近の子どもは・・・」と説教垂れる大人まで出てくる始末。使わせなくしたのは、あんたたちだよっ!
今どき、危ないものはいくらでもある。
ナイフの他にも、クルマは人を殺すし、インターネットではテロも起こせる、人智を凌駕するAIも出てくるかもしれない、なんて言われてるし。
危ないから、といって、止めてしまうのか。進歩や進化を止めてしまっていいのか。
「ホモ・サピエンス=知恵ある人」を名乗るなら、科学や文明を正しく使う知恵を発見して、それを利用して、もっといい明日を作っていこうよ。
僕はそっちの方が、次の世代のためになると思う。
※画像はリンク先より

あの、朝日新聞が・・・

image
どこがやってるの? と思って調べたら“あの” 朝日新聞でした。
サイトの中をよーく見に行かないと企業名が書いてないのは、昨今の風潮に気兼ねしたの? なんてイジワル気分にもなってしまうけど。
ニュースを掲載するだけでなく、記事に対して読者からの疑問や要望を受け付け、朝日新聞の記者がさらに取材をし、記事を加筆したりする、という新スタイル。SNSの双方向+マスコミの取材力、みたいな?
例えば、、、
10月6日に寄せられた読者からの質問に答えて、10月17日に下記の時事が出ている。
【お答えします】エボラ出血熱、日本で発生したらどうなる?
その他、関連情報や朝日新聞記事のリンクなども掲載され、読者の「もっと知りたい」というニーズに応えられるようになっている。
新聞記者が取材してきた、というのは、ポイント高いと思う。ヤフー知恵袋なんかよりは信頼できるし。こういうことは、まさに新聞社しかできないことだよね。
ふむふむ。
Topにある記事を見ても、面白そうなトピックが並んでる。TwitterなどSNSの情報をもとに起こした記事もあるけど、いま評判の悪いバズサイトのように内容やリンク先のコピペではなく、記者による記事内容の検証などもあわせて掲載され、より信頼性を高めよう=ニュースの価値を高めようともしている。
ゴミの山のような「ネット情報」の中から、これは、と思えるものを見つけてきて、ホコリをはたいたり、きれいにしたりして「見れる」「読める」ようにするには、リソースや情報、パワーのあるマスコミの得意技なわけで。
なるほど。
やればできるじゃん! 朝日新聞!!
(でもいまとってる新聞は、来月満期なので解約しちゃうけど)
※画像はhttp://withnews.jp/aboutより

まだまだ信頼できないよね。

image
この一件で僕が知りたいのは、慰安婦問題や吉田調書報道などが、
■どんな状況で、報道されてしまったのか? = プロセス論よりも、
■なぜ、それらの記事が生まれてしまったのか? = 編集方針論、の方だ。
なのに朝日新聞は、一連の誤報問題の解決に「信頼回復と再生のための委員会」なるものを作り、読者から意見を聞いたり、外部から識者を呼び検証を行ったり、社内制度の構築のし直しなどをしている。
そればっかりで、編集方針については、触れる気配すらない(読者の声には、見かけられるんだけど)。今日、出ていた記事も同様だ。
新聞に限らず、雑誌や書籍などは、すべて「編集方針」のもとに作成される。
黒い色の魅力を紹介するという「編集方針」のもとに作成される記事だったら、たとえ対象物が白くても、陰影など「黒」の部分をとらえ、「白い中にも黒が宿っている」などと書くものだ。それが編集という作業だ。
朝日新聞という大きなメディアが、なぜあんなに大きな「誤報」を垂れ流してしまったのか。その根本の問題点は、編集方針にあるはずだ。
それら「誤報記事」は、どのような編集方針に基づき作成されたのか。その編集方針によって、同新聞はどんなことを世間に主張したかったのか。
こうした指摘や検証は、これまでの同新聞の記事を見る限り、ない。
編集方針を見直さない限り、いくら社内改革しても、同じような記事はまた垂れ流される。きっと。
それが僕がとても残念だと思ってることだし、この新聞とその記事はまだまだ信頼できないと思ってる最大の理由。

バーチャルも大事、リアルも大事。

image

昨日の日曜日は、富士吉田で開かれたクルマ好きのイベント「富士トリコローレ」に参加してきました。どしゃ降りだったのに、けっこうな人とクルマが集まりました。

台風の影響で朝から雨がザーザー降るバッドコンディション。
そんな中でも、クルマ好きが大勢集まって、雨が降って寒いことも忘れてしゃべったり、他の人のクルマを見たりして楽しんでました。

今回は、イタ車と呼ばれるイタリア車、それも最近のクルマが中心のイベントでした。こういう感じで、ドイツ、フランスなど、輸入元の国別に開かれるイベントがあります。国産でもメーカー別や車種別、地域別などで小さいイベントがたくさん開かれています。その他に、オープンカーだけのイベント、クラシックカーなど年代別などなど。
さらに、サーキットやジムカーナ場を借り切っての走行会、ランチミーティングなど、体験型のイベントもいっぱい。
また主催者もメーカー自身をはじめ、オーナー有志、販売店やショップ主催によるもの、自治体イベントの協賛など多種多彩。

ホンダが少し前に作ったスポーツカー「NSX」のオーナー有志がミーティングを開いたら、それを聞いた栃木県警が自分たちが持っているNSXのパトカーを“出動”させた、というエピソードもあったそうです。日本の警察も、なかなかやります!

インターネットのおかげで、いろんな人があっという間につながるようになってきました。僕がこの日一緒だった人たちと知り合ったのも、クルマ好きのSNSのおかげ。スマホやパソコンで、画面上でやり取りしているだけでもけっこう楽しいモノです。

でもこうして会って話して、一緒の時間を過ごすと、もっと楽しい。
降りしきる雨の中、インターネットのバーチャルの効用と、リアルに会うことの大切さ、その両方をあらためて感じた一日でした。

※画像は、昨日は雨でそんなに撮れなかったので、今年4月に僕が参加した「アバルト・ドライビング・アカデミー」のワンカット。