東日本大震災、福島原発惨禍から5年。相変わらずな(一部の)マスコミにがっかり。

福島「放射性物質」土壌汚染調査 8割の学校で驚愕の数値が!
ダメだよ、この記事。と、読んだ瞬間、思った。

ただ、大きなテーマなのでよく考えようと思い、翌日、もう一回呼んだ。
ダメだ、という思いは変わらなかった。

念のため、明日もう一回読むことにしたんだけど、思い変わらず。で、このテキストを書き始めたわけだ。

この記事のどこをダメと感じたか。

誰も救われないからだ。

確かに、記事に出てくるママたちは、自分たちが強く不安に思っていることを中央の大きなマスコミに取り上げてもらって、少しは気が晴れたかもしれない。「やっと話を聞いてもらえた。伝えてもらえた」と。

だけど、それだけのことだ。
この記事では、ママたちが不安に感じる放射線のことは、1ミリも解決しない。

それどころか、「福島にはまだ多くの放射能が残っている」と、風評被害を再燃させてしまいかねない。

地域を復旧させようと、必死になって取り組んでいる人がいる。汚染された土壌の改善や地域の人の健康管理、地元の産業復興などで、いろいろな人が熱意を持って活動している。
そんな人たちにも、この記事の伝え方は残念でしかないはずだ。

繰り返し書くけど、この記事では福島の放射線問題は1ミリも変わらない。5年も経ったのに、編集者は何を見て感じてきたというのだろう。
僕が一番ダメだと思ったのは、この記事のタイトル。

『福島「放射性物質」土壌汚染調査 8割の学校で驚愕の数値が!』
スキャンダリズム丸出し。クリックを狙うブログによくある見出し。

ただ、記事をよく読むと、後半では福島の構造的な問題点が指摘されている。日本の社会的な問題ともいえる。僕も共感する部分があるし、いまの時点でこの記事を出すならこちらの部分がメインになるべきではないか。現場の状況がなぜ見過ごされてしまうのか、なぜ、地元の人が納得いく改善が進まないのか、問題提起になるはずなのに。

どうしてこの後半部分が主題にならずに、スキャンダラスな見出し付けと、それを受けるけばけばしい記事構成になってしまうのか。

あの大震災と、福島の惨禍から5年。テレビや新聞、雑誌、ウェブで、復興に頑張る地元の人たちの様子が伝えられている。
悲しいこと、無念なことが起きたけれど、それを乗り越えようとして頑張っている人たちがいる。
地元の人は、前進しようとしている。変わろうとしているのだ。

なのに、この記事を作った人たちは、何ひとつ変わっていないように見える。
原発問題が起きた当初、スキャンダラスな特ダネ報道の競争が繰り返されたけど、あのときの気分がいまだに抜け切れていないんじゃないか。

5年も経ったんだから、報道の姿勢や内容も変わっていくべきじゃないのか。

週刊誌に、いつもいつも高邁な記事を期待してるわけじゃない。
だけど、みんながとても悲しく辛い思いをした、あの事件に関することくらいは、前進しようとする被災地の人を後押しするような、僕たちに問題点を提起するような、そんな記事を作るべきじゃないか。

それともうひとつ。

期せずして「保育園落ちた、日本死ね」のブログが話題を集め、国会ですったもんだのあげく、保育士に特別手当ての予算が組まれるような動きも出ている。

マスコミの役割って、こういうことじゃなかったか。
いまの社会の問題や矛盾を浮かび上がらせ、世の中を動かす。

特に週刊誌は、こんな身近な問題に関する世論喚起が得意なメディアだったはずなのだが。

「知恵ある人」だからこそ。

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福島原発事故の検証番組ですね。解釈によっては原発否定にも、あるいは事故当時の生検だった民主党批判にも取れる番組なので、衆議院選挙後のこの時期になったのか、なんて勘ぐりながら見てたり。
時間が経ったことで出てきたデータや事実、実験結果などをもとに、事故当時の問題点を探っています。放射性物質の大量放出のデータや、その状況を再現したアニメーションは、ちょっとショッキングでした。
でも、「結局、使う人間の問題だよな」と。
“原発安全神話”を作り出し、対策をないがしろにした設計、運用の誤謬だよな、と。
同じような人がいまも職に就いているらしいけど、果たして、そういった根本的な姿勢は変わったのか、何だかとっても疑問。
例は違うかもしれないけど、クルマの日産が長年赤字を垂れ流し続けてもなかなか組織改革できず、結局、外部からカルロス・ゴーンさんを招聘して生まれ変わった。あれと同様に、例えばレギュレーションを決めるなら、アメリカやフランスなどの外部の識者に加わってもらうとか、運用も同様にするとか。そのくらいの“荒療治”が必要なんじゃないか、と。
僕は、原発はあってもいいと思う。確かに、この番組でも明らかになったように、未知の領域が多く、危険な技術。ハイリスク・ハイリターンなエネルギーともいえる。
だけど、危ないからといって、ここまで開発してきたことを捨ててしまうのもどうか、と。
僕らが小さい頃、まだ小学校でえんぴつを使ってた頃、えんぴつを削るボンナイフは危険だ、ということで学校や家庭でいっせいに使用禁止になった。そのおかげでナイフはおろか包丁も使えない子どもが増えて、例によって「最近の子どもは・・・」と説教垂れる大人まで出てくる始末。使わせなくしたのは、あんたたちだよっ!
今どき、危ないものはいくらでもある。
ナイフの他にも、クルマは人を殺すし、インターネットではテロも起こせる、人智を凌駕するAIも出てくるかもしれない、なんて言われてるし。
危ないから、といって、止めてしまうのか。進歩や進化を止めてしまっていいのか。
「ホモ・サピエンス=知恵ある人」を名乗るなら、科学や文明を正しく使う知恵を発見して、それを利用して、もっといい明日を作っていこうよ。
僕はそっちの方が、次の世代のためになると思う。
※画像はリンク先より