のんびり上野

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今世紀になって初めての、上野公園?
もはや、ひさびさ、というより記憶にないです。
なので、テレビなどで見ていた光景を思い出して、ああココなのね、などと、気分はもはやお上りさん。
花見でにぎわう通りだ、と思ったり、
西郷さんともコンニチハをしたり。
けっこうな人がいると思うんだけど、広いのでいやにならず。
東京の都心に、これだけのスペースがあるなんて、いまさら感動ですねー。
大きな博物館や美術館、広いお池に、動物園、モノレールとか。
寛永寺などの大きなお寺、向こうには東大があったり。
昔はここが中心だったんだなぁ、と。
商業的には池袋とか、渋谷とかにウェイトが移ったり、
新幹線だけでなく、常磐線や東北線などでも上野が終着駅でなくなったり。
そんな上野の地盤沈下が言われてますが。
でも、そんなふうにシフトウェイとしてしまった場所だからこその、ゆったり感が心地いい。
渋谷とかで感じるギスギス感とか、
丸の内の背伸び感とか、
新宿のゴタゴタ感とか、
そんなのとは一切無縁。
のんびり、自分のペースでいいよ、って西郷さんも言ってくれてる感じでした。

大内さんと、徳大寺さん。


「ホンモノは、その程度ではないよ」といつも言われてるようでした。
大内順子さんと、徳大寺有恒さんが、相次いでお亡くなりになりました。とてもショックでした。
ハイセンスな大内さん、ダンディな徳大寺さん。ファッションの世界で、クルマの業界で、それぞれ評論というフィールドで海外の文化やスピリットを伝えてくれた人でした。
70年代からバブル期くらいまでは、まだまだ日本の業界も成長期。海外の流行のパクったような商品を作り、それを日本国内で売りさばくような「商売」が主流でした。
そんな状況を鋭く批判し、「ホンモノを見抜く目を持ちなさい。そのために、知識や経験を重ねなさい」ということを伝えてくれたのがこのお二方でした。
カールラガーフェルド、ジバンシィ、ピエールカルダン、
ジウジアーロ、ピニンファリーナ、ガンディーニ、
雑誌やテレビを通して紹介された、「ホンモノ」の才能を持ったデザイナーやカロッツェリアの作品にあこがれたものです。
そういった情報に触れるたび、「似てるけどそうじゃない商品」が市場にあふれていて、それを見てガッカリしていたのを憶えています。
時代は変わりました。
かつてのように背伸びして海外をのぞき見て、その良さやエッセンスをマネしたりしなくてもいいような時代になりました。日本でも自分のアタマで考えて、「日本発」のアイデアや商品を発信できるようになりました。「ホンモノ」が作れるようになったのです。
そしてそうした商品を、僕らはある程度自信を持って選べるようになりました。
お二方がやってこられたことが、結実したのだと思います。
大内さん、徳大寺さん、安らかにお休みください。
※画像はhttp://www.asahi.com/articles/ASGC755QJGC7UCLV008.htmlより

たかがコピー、されどコピー。

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日本もけっこうイイ映画作ってるじゃん。でしょ?

って言いたかったんだと思うんですけどね。
僕はコピーライターなので、できるだけ好意的に解釈しますが。
先日閉幕した、東京国際映画祭のコピーが物議を醸した、とWebニュースに取り上げられていました。
件のコピーはこちら
———————-

ニッポンは、
世界中から尊敬されている
映画監督の出身国だった。
お忘れなく。

Lest we forget; our nation
gave birth to some of the world’s
most respected directors.

———————-
これを見ると、本来なら「映画」あるいは「映画祭」が主役になるはずなのに、それが「日本」にすり替わっちゃってますよね。
さらに、最後のワンフレーズが上から目線なので、違和感に拍車をかけることに。
ただ、コピーが主張する内容を印象づけるために、こうしたワンフレーズをわざわざ加えることは、別に悪いことじゃないと思うんです。ただ今回は、最初の3行で醸成されたネガティブな印象が、ラストフレーズでさらに増幅されてしまったことは否めませんが。
「商品」を売るのが、コピーというか広告の目的。今回は東京国際映画祭の開催の告知やその来場を促進するような広告が目的のはず。なのに、それが日本という国や、この国の映画に関する業績が主題になってしまっている。そこが、物議の発火点ですね。
ただ、広告には発注元としてクライアントがいて、制作物にはその意向が反映されます。
この映画祭の主催は、財団法人日本映像国際振興協会。共催として経済産業省、東京都が名を連ねています。
ここからは僕の妄想ですが。
『みんな!映画見ようぜ』『東京で世界を見る』みたいなコピーだったんじゃないかと、当初は。だけど、
「映画っていうとハリウッドとか韓国とか、最近はインドもすごいよね」
「そういえば、映画って追加以外の作品に目が行っちゃうよね。J-POPみたいに、日本作品のプレゼンスを高められませんか」
「日本だって、有名な作品や監督、いっぱい出ますよね。アニメみたいに映画もニッポンブランドを売り込めませんか」
「そうそう、わが国は“クールジャパン”を推進してわけだし、映画国ニッポン、みたいな打ち出し方できませんか」
なんてやり取りがあって、そうこうするうちに、あのコピーに辿り着いたのではないか、と・・・
※画像はhttp://www.j-cast.com/2014/10/28219480.html?p=allより

どこでも事務所。


高い波、打ち上げられるしぶきに誘われるように、どんよりとした雲から、さらに雨も。
窓を叩くのは、波しぶきなのか、雨粒なのか。
なぜか頭の中では、八代亜紀の「舟歌」が鳴り始めたり。
こんな風景を見て演歌の心境になってしまうのは、僕が日本人だからなのか、単なるおっさんだからなのか?
急遽、伊豆のペンションへ。プライベートではなく、仕事だったのが残念だったのですが。
打ち合わせ自体は午前中で終わり、東京に戻ろうと走っていたら仕事メール。それも急いでいたので、お店に駆け込んだわけです。
ここが、今日の僕の仕事場。どこでもドア、ならぬ、どこでも事務所。
磯料理を食べさせる民芸調のお店、50人以上は入れそうな広い店内で、いきなり広げたMacBookAirはかなりミスマッチな光景だったと思います。
そのせいか、後から来たお客さんたちは僕を避けるように遠巻きな席に陣取ってましたね。おかげで、僕のまわりはざわつくこともなく、仕事に集中できました。
「せっかく休みを取って出かけたのに、モバイルに邪魔された!」って、先日会った友人はぼやいていました。3連休に有給休暇をもう一日追加して、4連休にしたのに、モバイルのせいで出先でも仕事に追いかけられた、と言っていました。
彼は会社員。この時間は仕事、と割り切れる立場。だから、その“境界線”を越えて、いつでもどこでも、ずかずかと仕事の事情をねじ込んでくるモバイルには我慢ならないのでしょう。着信しちゃったら、応えないわけには来ませんからね。
僕は一介のフリーですから。まったく逆の考え方。
モバイルのおかげで、いつでもどこでも仕事ができるように。夏休みなど、キャンプに出かけた先とかでパソコンを広げていたこともありました。モバイル環境がなかったら、仕事=東京から離れられず、家族と旅行に出かけることもままならなかったはずです。
彼の場合も、僕の立場だったら「モバイルのおかげで4連休にできた」って、思うはずなんですけどね。

ヨセミテ、その後。

ふっと、ウインドウがなくなった! と、思ったら出てきた。

トラックパッドに指がふれて、それがちょうど何かの操作になった、らしい・・・
Appleには隠しコマンドがいっぱいあるので、多分、そのひとつだと思うけど。
こんどのヨセミテは、これまでのApple OSの流れに沿ったリファイン版。
以前はiPhoneでのテザリング時、相手を見つけにくく、見失いやすかったんだけど、それが良くなった。iPhoneがスリープ中でもスタンバイ状態であれば、Wi-Fi接続先の候補に最初から出ていて、すぐにつなげることができるように。MacBookAirを何度もスリープさせたり復帰させたりしていると、見えなくなってしまうのは相変わらずだけど。
その他にもBluetoothのペアリングが早くなったり、ファイル保存時などでダイアログ画面が随時表示されて、操作が分かりやすくなったり、細かいところがちょこちょこ使いやすくなってる。
ポルシェは毎年、部品や仕様をきめ細かく変更して全体的な性能アップを行っているけど、そんな感じ?
その他にも、冒頭のような「隠しコマンド」もいろいろあるんだろうけど、それはおいおい。
しかし、このフラットデザイン、シャドウやグラデーションなどのムダな装飾がなくなって、見やすくなった、ファイルやフォルダが見つけやすくなったと言えばそうかな?
ただ、Safariのブラウザがオーバーレイになっていたりと、画面全体を美しくに見せるデコレーションも増えた。
「こんなことでメモリやGPUを無駄遣いして」なんて、いままでだったらそんなケチくさい文句が出てたけど、ハードウェアの性能がこれだけ上がれば、まいっか、という気にも。
結局、OSとハードウェアは一蓮托生なんだな、とあらためて思った。
※しかし、ヨセミテってどんなとこ? と思っていたら、OSのデスクトップピクチャにちゃんと入ってました。確か5種類くらいあって、画像はその中のひとつ。

夢の終わり。あるいは始まり?

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クルマが売れない。と、もはやお約束的なフレーズになっちゃってますが。
調べてみたら、1990年度の780万台を最高に、リーマンショック直後の2009年に460万台まで落ち込んで、2013年度は538万台。ざっくり、3分の2くらいになってしまったわけだけど。まあ、売れてない。
ちなみに1990年というと、ホンダからスポーツカー「NSX」が出たり、翌年にはトヨタからバブルを体現したかのような「ソアラ」が出たり。その他にも軽の「ホンダ ビート」「スズキ カプチーノ」、かなりニッチな「スバル アルシオーネSVX」「いすゞ ビークロス」なども。クルマ業界はまさにゴールデンエイジだったわけ。いまでもこの時代のクルマが、けっこう良い値段で取引されています。
エコブームとか、非正規雇用が増えたとか、所得が伸びないとか、高齢化とか、売れない理由としていろいろ言われていますが。
でも僕はひとこと、
「夢がなくなった」のだと思う。
クルマというと、まず、スピードの夢があった。最高速、時速200キロでると、「スゲー」って、男のたちは目をみはりました。でもね、いまはカローラでさえリミッターを外せば出せるスピード。高性能なクルマになると、時速300キロは当たり前、400キロ!を豪語するモデルも。でも、そこまでくると、夢とかあこがれを通り越して、単に別世界の話。ふ〜ん、で終わってしまう。
夢が、終わっちゃったわけ。
だったら、自分のフィジカルで動かす自転車とか、もっというとゲームでラスボスを倒すとか、そういうことに「夢中」になるようになったわけだ。
いまスポーツカーを買ってるのは主におじさん、90年代を引きずってる層がメイン。若い人はあまり買ってないし、乗ってない。
ちょっと景気が上向いたおかげか、NSXのハイブリッド版など各社からスポーティなクルマの発売が予定されてるけど、発表会とかネットの反応を見る限り、群がってるのはおじさんばっかりだ。
エコとか、燃費とか、8人乗りとか、そういう目先の実用性ばかりじゃなくて、若い人がなんか欲しくなるような「つぎの夢」というか「クルマに乗る価値」みたいなものを打ち出さない限り、クルマの売上げ台数は人口減少のグラフと同じような線を描くんだろうな、と思ったのでした。

“単”捨離、やってみた。


断捨離ほど本気じゃなくて、もうちょっと手軽で簡単。だから「単捨離」。それをやってみた。
今回は衣類(寒くなってきたので)。夏冬の入れ替えをしつつ、引き出しの奥まで整理。もう着ない、いらない、というモノのほかに、忘れていたものまで出てきた。
引き出しの奥で寝てる → 必要になったときに見つからない → ないから買い足す → いらない服が増える → 収納が足らない → 収納を増やす?
見事なムダと浪費のサイクル! 単捨離でも、ちょっとは節約になった(と、思いたい)。
それと、いままでゴチャゴチャになっていた収納がスッキリしたら、頭の中も整理された、ような。
これまで着替えのたびにアレどこだっけ? あのパンツは?? と収納をあちこちひっくり返したりしてたムダな時間も、これから減るような気がします(まだ着替えしてないので何とも言えないけど・・・)。
そうか、整理するって、いまの状態を変えるだけじゃなくて、これからの便利さ、快適さにもつながる、かも。と、ちょっと発見。
毎日の仕事でゴチャゴチャな仕事のPCとかも、整理してみようかな、と思ったのでした。
※クローゼットがこの画像くらい広かったら、苦労しないんだけど・・・画像はhttp://juutakudesign.com/2011/12/post_74.htmlより

そしてヨセミテへ。

OSアップデートしました。

この3連休、どこにも行く予定がないので、せめてヨセミテに行ってみようか、と(寂)。

以前から画面上にたびたびメッセージが出ていたのだけど、互換性の不具合がないかどうか様子を見たかったので、先送りにしていました。

バージョンアップは、例によってボタンを何回かクリックするだけであとはおまかせ状態。5GBあるアップデータのダウンロードに時間が少しかかったけど、その後は1時間もあれば、という感じ。

開けて見ると、最近のiPhoneなどですっかり有名になったフラットデザインがさらに追求されていて。いままでの雰囲気のままのようなんだけど、なんだか違う。認知力を上げるためなのか、彩度が上げられているのでルックスはなんだかポップになった印象。ぶっちゃけてしまうと、子どもっぽくなった、ともいえるかも。

で、実際に使ったファーストインプレッションは、「軽いかな」。前のOS マーベリクスよりも、ちょっとサクサクッとなったかな。細かな機能の確認は、これから。

それにしても、Mac OS X(テン)って、10.9からアップグレードしたらⅪ(イレブン)になるかと勝手に思ってたんだけど、そうじゃなかったのね。10進法じゃないんだ。

街の記憶

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駅に行く途中にあった金物屋さんが、ラーメン屋になりました。

ある日、まだ暑かった頃。そこを通りかかると、以前その店で買い物をした時に相手をしてくれたおじさんが、ネクタイの人、2〜3人となにやら話をしていました。その後すぐ「お知らせ」の紙が貼られるとともに、店の中ががらんどうとなり、何日かして職人さんが足場を作ってシートをかぶせ、トンテンカンが始まりました。
金物屋さんは昔からやっているようでした。おじさんもけっこう歳がいってましたし。この地域に引越してきたとき、釘とかハンマーを買ったように記憶しています。そのあと、草刈り鎌とかノコギリとか。
おじさん一人で切り盛りしていたせいか、商品の陳列や管理はけっこういい加減(失礼)で、商品のありかを聞いても「あそこにあったはずだけどなぁ」「おかしいな違うなぁ」という、何とも心許ない様子。でも、草刈り鎌を一緒に選んでくれたり、そのあと危なくない草の刈り方を教えてくれたり、アメ持っていきななんてお駄賃(?)をくれたり、といったこともありました。
ゆるくて頼りないけど、なんだかちょっとホッとするような。
こんなお店、昔はいっぱいあったんですけどね。
ホームセンターができたとか、高齢化して跡取りがいないとか、いろいろ理由はあるかもしれないけど。
社会全体が利益とか効率化とかでキリキリして、こういうお店がまったりと経営を続けるだけの余裕がなくなってきた、それが一番の理由なんじゃないかと思っています。
新しくできたラーメン屋は、ロゴの作りとか人目を引く看板とかPOPとかも、今どき。
きっと店に入ると、威勢の良い声で迎え入れられたり、麺のかたさやスープの濃さなどの好みを聞かれたり、変えるときにチケットを配ったり、今どきのサービスが受けられるんでしょう。
それで、1か月も経てば、ここに金物屋さんがあったことなんて忘れていくんだと思います。
お店が変わって、その商品やサービスもアップデートされていく。気持ちや記憶も更新されていく。
Googleマップの画像が、気がつくと新しく撮影したものに変わっていくように。
まあ、どこにでもあるような、街の光景といえばそうなのですが。