出版社テロに、メディアが団結して100万部増刷で抗議。フランスは大人の国だと思った。

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Liberte・Egalite・Fraternite(リベルテ・エガリテ・フラテルニテ)
自由・平等・友愛

フランスといえば、この3つの言葉だ。18世紀のフランス革命で掲げられたスローガンで、以来、フランスを形容するキーワードにもなっている。いわば、この国のコンセプトだ。
ドイツの正確さ、陽気なイタリアなど、特定の形容詞を持つ国はいろいろあるけど、こんなに具体的なコンセプトワードを持っている国も少ないんじゃないか。

個人主義の国で、例えば事実婚が多いとか、移民が多くて国内がバラバラだとか、実は社会主義なのでこのコンセプトとは矛盾してるじゃないか、などなどふだんはいろいろ言われてきた。

でも、このニュースを見たら、言葉は悪いけどカッコイイとさえ思った。

このページに

、つぎのようなニュースが。
>偉大なスタッフをなくしてしまったシャルリー・エブドですが、

>次の週の出版も宣言しており、普段は6万部しか出版しないところを

>100万部出版する、というとんでもない計画もスタートさせています。

>前代未聞の大量出版を成功させるため、Googleが出資した

>独立系カルテルのDigital Press Fundから

>25万ユーロ(約3500万円)の寄付を受け、

>他にもル・モンドやフランス・テレビジョン、

>ラジオ・フランスといったフランスの著名メディアからも

>金銭面でのサポートが入る見込み。

>さらに、配給関連の業者は出版時に発生する印刷代や紙代を

>無償にすることでシャルリー・エブドをサポートする予定、とのことです。

メディアといってもふだんは主張の違いがあったり、立場も違っていたりで互いに相容れないだろうに。
でも、いざとなったら、瞬く間に団結してしまう。
大人だな。文化が成熟しているんだと思う。

これが日本だったら、ウチはあそこまでやらないから関係ないとか、ヘンに金を使ったら株主代表訴訟されるとか、んにゃんにゃ言いながら結局、効果的なアクションは起こせなさそう。

これが、フランスの底力だと思った。

※画像はhttp://www.charliehebdo.fr/index.html より

アラブが香る、ドバイのピスタチオ

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ドバイ土産のピスタチオ。
ウィキペディアによれば、原産は地中海。主な生産地はイラン、アメリカ、トルコ、シリア、中国、と並んでいる。ふーん、意外にワールドワイドなんだ。
最大の生産地は中東のイラン。なので、ドバイ土産でも不思議はないわけだ。
殻をはずしてみると、茶色い皮がけっこう残っている。で、その皮が実にしっかりへばりついていているように見える。中には発酵しているように見えるものも。単に乾燥というより、燻製にされているような。
で、食べる。うまい!
口の中に独特な香りが広がる。
お香のような。でも複雑で、モスクの写真でよく見るアラベスクのように、いろいろな香りが渾然一体となった香り。本場のインドカレーで、よくかぐ香りも混ざっている。
乾燥させるときに、スパイスなども一緒に混ぜているのか。それとも、ふだん使っているお香が自然に紛れ込んでしまっているのか。
少し強い塩味が、口の中でさらに香りを引き立たせている。
ひとことで言うと、まさにアラブの香り。なんか、身も蓋もないね(笑)。
ドバイの街も、こんな香りがしてるのかなぁ。

世間ではiPhoneのシェアは下がってるはずなんだけど、ウチの家族の場合はシェア100%(笑)

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なにこれ? iPhoneばっかり!
年末年始、帰省したら、みんなのケータイがiPhoneになってました。
もともとiPhoneだったのが1人。
ガラケーやAndroid端末からの機種変が3人。
そしてわが家4人分。
全員5C以降の機種なので、ケーブルが共用できて便利。
時間があれば、みんなでFaceTimeをやりたかったけど、
そんなことより、お正月なのでやっぱり飲んだり食べたり、、、
Android 50.8%
iOS 40.4%
なので、8台集まったら、4〜5台はAndroidのはずなんだけど。
前はAndroidユーザーだった人がいたけど、
操作が分かりにくい、
充電がすぐにへたる、
などで、「なんか不便」という不満があって、それはよく聞いていた。
で、身近な家族にiOSユーザーがいて、
すいすい操作して、
充電の不安もなく使ってる様子を見て、
「じゃ、私もiPhoneに」という人がこの中に3人はいる。
同じように、Androidをイヤイヤ使ってる人も多いんじゃないの?  そんな人が2年縛りが外れたのを機に、iPhoneに機種変する人が増えるんじゃないの??
ドコモがiPhone販売を始めてから、今年の9月で満2年になるし。
などと思いながら、おとそを飲んでました。

いろんな情報に接して、活用したいなら、画面はやっぱり大きい方がいいと思う。

朝日新聞から日経に、今月から新聞を替えます。
朝日は例の事件でいよいよ購読中止しようと思ったけど、契約が残っていたので来月まで継続することに。
ちなみに、前の社長の辞任会見直後に謝罪のチラシが折り込まれ、そのすぐ後に契約継続を勧める販売員が来てた。「組織プレー」の感じがしないわけではなかったけど。「やめる」と言ったら、他にもそんな家がたくさんあったらしく、そのまま帰って行きました。
販売店はとばっちりを受けただけなのに大変だなぁ、と思ったり。
この際だし、それに来年から子どもの就活が本格化するので日経に切り替えよう、と。
でも、当分は新聞を止める気はない。
だって、画面サイズが広いから。
ケータイ < スマホ < タブレット < PC
の順で画面サイズが大きくなるけど、これって、情報の取得しやすさ、理解度の順でもある、と思ってるわけで。
ケータイの画面は、情報を得る「窓」としては本当にミニマムサイズ。なんとか参照できる小ささだった。ともすると何回か読み返さないと納得できなかったり、別の情報にアクセスして深掘りしようという気も起こらないし。
このままケータイ使ってたら、アホになる。自分のためにならない。って思ってたらiPhoneがでたので、さっそく替えた。
でも、iPhoneの画面でも小さい。ギャラクシーで「ファブレット」サイズが出たり、iPhoneも「6」になって画面がグンと大きくなったけど、それでも画面が小さい。
手元にiPadがあればそれを見るし、PCを開いたり、さらに事務所だったらiMac27がやっぱり見やすい。分かりやすい。仕事しやすい。
で、見やすさの最終兵器っていったら、やっぱり新聞のサイズだと思うわけ。
電子端末のようにインタラクティブ性はないけど、その代わりに広い画面ならではの一覧性がある。自分の欲しい情報だけでなく、その周辺の情報もいろいろ目に入ってくる。
就活のトレーニングとしては、そんな多種の情報に日々触れておくことは大事。
受験期には子ども新聞を読ませていたし。そのせいか、社会の点は良かった。
画面サイズが大きくなるほど、情報に対して能動的になるように思う。
「スマホばかり見てると、かえって情弱になる。PCやiPadも使うように」って子どもには言ってる。
※画像はhttp://www.sankei.com/life/photos/150102/lif1501020013-p6.html より

正月らしさが薄いって言われるけど、そもそも年末らしさもなんだか薄くなっているような。。

年末のはずなのに、この「年末感」の薄さはなんなんだろう。特に今年はきょう29日も仕事しているせいか、まだまだ年の暮れという気分になれないし。
テレビやウェブなどで「この一年」なんて総括してるけど、そもそも、こっちは年末という意識が薄いので、なんでそんなことやってるんだろう、なんてキョトンとしちゃったりして。
年末感が薄くなってるのは、年々、“正月らしさ”が薄くなってるせいじゃないか、などとも思った。
子供のころは、毎年1月1日から何かが始まる感じ。けじめというか、いろいろリセットされて、新しくなる。この日のために、新しい下着とかを下ろしたりしてたし。
また、そういった日を迎えるために、大掃除をしたり、餅をついたり(実家ではホントについていた)、おせち料理を仕込んだり、それはそれは忙しくて慌ただしくてめまぐるしかった。
だけどいまは、1月1日は12月31日から続く365日のうちの1日、という感じになってきているような気がする。
この時期、1週間くらいみんな休みになって、仕事とか生活に影響が出るから、やっておかなくてはならない、仕込んでおかなくてはならないことが増えるけど、それも片付かなかったら新年に持ち越しちゃっていいや、なんて。
Restart、Reset、というより
Continue、Going on、という感じ?
海外などでは、1月1日だけ「Happy New Year!!」なんて大騒ぎして、次の日から粛々と仕事してたりするけど。
そんなふうにけじめなく、だらだらと時間だけが過ぎていくようになるんだろうか?
それはそれでちょっと不安に思ったりもして。

テレビが面白くなった理由は、「いま」が見れなくなったせいだと思う。

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ちょっとキャッチーなタイトルだな、とは思いつつも「そうなんだよ」と、ポチッとクリックして読み進めました。
わが家の場合、週末のゴールデンタイムなのに、見たい番組がない。子どもと一緒の食卓なので、みんなで1〜2時間、一緒に楽しめる番組があればいいだけなんだが。
バラエティにしても、お笑いにしても、もはや既視感のある番組しかやっておらず、あわせていても音がうるさくて邪魔なだけ。なので、結局、NHKに行ったり、BSやCSのスポーツやライブ、あるいは録りためた映画など。ときにはゲーム機経由で通信カラオケやってたり。
テレビというメディアは、「いま」を「お茶の間」に見せてくれるメディアだと思うんだ。ニュースとか流行っている歌とか人気の俳優のドラマとかスポーツの試合とか。
それが、しだいに「数字」という呪文に縛られ、特に民放の場合、「過去に数字の良かった番組の焼き直し」が多くなった。
どのチャンネルを回しても、同じ顔ぶれ、同じ内容。いまが見えず、既視感のある番組。
テレビ番組がつまらなくなった原因のひとつだと思う。
スポンサーシップによる無料放送の限界なんじゃないか。
いま、「いま」を見るならニコ動とかニコ生、YouTubeが面白いしね。
※画像はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/テレビ より

日本は消費ばかりで、文化がなかなか育ってないんじゃないか、と思う件。

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「オワコン」って、そういえば最近はあんまり聞かなくなったなぁ。「オワコン」がオワコンになったのか(笑)?
もともとはアニメおたくたちが使っていたコトバなので、アニメなどのコンテンツを指して「終わったコンテンツ」なんだそうだ。それが拡大解釈されて、商品やサービスまで範囲を広げるようになった、とGoogle先生が教えてくれた。
ただ、こういう「オワコン探し」って、けっこうみんな好きだよね。
人気のタレント、ブームや流行がひと通り消費されると「終わった」「オワタ」などとTwitterや2ちゃんねるで囁かれる。事件やトラブルがあるとそれに絡む会社や人間、タレントたちも同様。
オワコン探しては、レッテル貼って、次の目新しいコンテンツを探す。そんな繰り返し。
いってみれば、消費するだけで、蓄積しないんだな。
商品やサービスに限らず、カルチャーとかスポーツとか、そういうわりと根源的な事象に関してもこれまでは消費ざんまい。
Jリーグができたら野球をオワコン扱いにしたり、
海外サッカーがオモシロイとなったら、こんどはJリーグをオワコンにしたり。
そういう、尻軽なサッカーファンが実際に僕の知り合いにいる。
アニメの他にもアイドルとか、つねに新しい“コンテンツ”を探して、それをTwitterなどで自慢し合うのがステイタスになってるみたいだし。
新しいモノは確かに刺激的で面白い。
だけど、そんなに次々に新しいモノ、面白いモノが出てくるのかなぁ。
バブル時代、「ニューモデル」ってカタログに書きたくてグリルのデザインを変えただけのクルマとか、色だけちょっと変えて「新発売」されるラジカセとか、そういう商品がいっぱいあった。
あの時代はいわば、新商品の大量生産・大量消費だったと思うんだ。
なので、「オワコン探し」とそれに続く「新コンみっけ」ごっこには、なんだかあんまり共感がわかない。
それより、そろそろ「文化」として育つようなコンテンツも増えてほしいな、と思うんだ。
以前、F1を鈴鹿サーキットに見に行ったとき、感動した。
1987年にリスタートしてから、30年近く。観客席には思い思いのスタイルでレースを楽しんでる人がたくさんいた。
「このレースのために、一年間、貯金してきた」「サーキットのテントで寝泊まりして、好きなドライバーを応援するんだ」「小学校のときから見ていて、去年就職した」という人もいたし。
そんな人と話してみると、ホントに普通の人で、でもF1が心底大好きで、観戦を心待ちしてきている。ドライバーやレースについて、濃ゆい話をする人もいるし。
F1が文化として根付いてきたんだな、と感じたんだ。
ちなみに、ESPNやBBCなど海外のニュースサービスで、スポーツのカテゴリーの上位には必ずF1も入っている。日本での野球のように、社会一般の文化というかエンターテインメントとして広く根付いているからだ。日本の一般社会ではオワコン扱いされてるけど。
オワコンのレッテルを貼ってぽいっとゴミ箱に入れてばかりではなく、たまには「よさげ」なモノをみんなでじっくり育てたり。そんなベクトルも、もっとでてきてよくない? 
そういうのを、成熟社会、っていうんじゃないか。

ショップメールは、お客様に「いらっしゃいませ」って挨拶するのと同じだと実感した例。

「いらっしゃいませ」って言えないお店みたいだよな、と思ったのでした。いや、今どき問い合わせメールの返事さえも返さないような店のことです。
クルマのタイヤを替えることになりました。
まずはタイヤ本体の値段をネットで調べたり、リアルの店舗に電話で聞いたり。そうしたらなんとビックリ!
ネットなら約7万(4本/送料込み)の価格が、
リアルだと16万円!! これは後述する組み替え工賃込みの値段なのだけど、これだけ価格差があったら、もはやリアル店舗に頼む気になれない。
あらためて、ネットの価格破壊を実感したわけで。
ただし、タイヤは組み替えという作業が必要です。最近は、古タイヤに対して廃棄料も払わないといけません。
商品を依頼したネット店舗はタイヤ販売だけなので、自宅近くで組み替えをしてくれる場所を探さないといけません。
そこで、また検索。
すると、ありましたありました! 僕のような「ネットで買って、工場で取り付け」の人たちのために、専用のマッチングサイトなどもあり、すぐにいくつかリストアップ。
さっそく、問い合わせのメールを打ったところ、4件中なんと2件がナシのつぶて。返事が来ない。
こういう作業や行程が面倒くさいひとは、16万円払ってリアル店舗で一気にやるんだろうな、とも思ったのですが。
ただ、残り2件のうちの1件がとてもていねいな対応で、問い合わせメールにすぐに返事が来たり、先方から確認メールをわざわざ送ってきたり。こちらが恐縮して「ありがとう」と打つと、ほどなくして「お待ちしてます」と帰ってきたり。
メールって便利だけど、顔を合わせてるわけじゃないから、今回のように初対面どうしの場合、きめ細かく対応しないと、行き違いが生まれたり、不信感が出てきたり、ということもよくあります。そういうデメリットを承知の上で、しっかりメールというツールを利用しているという感じでした。
そのお店のウェブサイトを見ると、町の小さな自動車工場で、決して人手は多そうにないんですが。メールのやり取りを通じて、僕は「安心して任せそう」という気になってきました。実際は、作業をお願いしてみないと分からないんですけどね(笑)
商売は、お客様とお会いして「いらっしゃいませ」から始まります。いまどき、リアル店舗でもウェブサイトも構えて、問い合わせをメールでも受けているようなら、せめてすぐに返事を戻してくれないと。
冒頭にも書いたけど、メールの返事もよこさないような店は、店頭で「いらっしゃいませ」も言えないのと同じ。
「ネットの時代になって、お店の商売が儲からなくなった」という話をあちこちでよく聞きますけど、ネットの時代になったからこそ、そういう基本的なことをきちんとやっていくことが大事なんじゃないの? とも思ったりしたのでした。

「知恵ある人」だからこそ。

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福島原発事故の検証番組ですね。解釈によっては原発否定にも、あるいは事故当時の生検だった民主党批判にも取れる番組なので、衆議院選挙後のこの時期になったのか、なんて勘ぐりながら見てたり。
時間が経ったことで出てきたデータや事実、実験結果などをもとに、事故当時の問題点を探っています。放射性物質の大量放出のデータや、その状況を再現したアニメーションは、ちょっとショッキングでした。
でも、「結局、使う人間の問題だよな」と。
“原発安全神話”を作り出し、対策をないがしろにした設計、運用の誤謬だよな、と。
同じような人がいまも職に就いているらしいけど、果たして、そういった根本的な姿勢は変わったのか、何だかとっても疑問。
例は違うかもしれないけど、クルマの日産が長年赤字を垂れ流し続けてもなかなか組織改革できず、結局、外部からカルロス・ゴーンさんを招聘して生まれ変わった。あれと同様に、例えばレギュレーションを決めるなら、アメリカやフランスなどの外部の識者に加わってもらうとか、運用も同様にするとか。そのくらいの“荒療治”が必要なんじゃないか、と。
僕は、原発はあってもいいと思う。確かに、この番組でも明らかになったように、未知の領域が多く、危険な技術。ハイリスク・ハイリターンなエネルギーともいえる。
だけど、危ないからといって、ここまで開発してきたことを捨ててしまうのもどうか、と。
僕らが小さい頃、まだ小学校でえんぴつを使ってた頃、えんぴつを削るボンナイフは危険だ、ということで学校や家庭でいっせいに使用禁止になった。そのおかげでナイフはおろか包丁も使えない子どもが増えて、例によって「最近の子どもは・・・」と説教垂れる大人まで出てくる始末。使わせなくしたのは、あんたたちだよっ!
今どき、危ないものはいくらでもある。
ナイフの他にも、クルマは人を殺すし、インターネットではテロも起こせる、人智を凌駕するAIも出てくるかもしれない、なんて言われてるし。
危ないから、といって、止めてしまうのか。進歩や進化を止めてしまっていいのか。
「ホモ・サピエンス=知恵ある人」を名乗るなら、科学や文明を正しく使う知恵を発見して、それを利用して、もっといい明日を作っていこうよ。
僕はそっちの方が、次の世代のためになると思う。
※画像はリンク先より

日本人とコンセプト:広告はコンセプトありき。

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まえと、そのまえからの続き。
ちなみに、広告制作の世界では、基本、コンセプチュアルなやり方で進められます。
誰をターゲットに、どんな訴求ポイントで制作するか。ディレクターが規定したコンセプトに基づき、デザイナーがラフスケッチを描き、コピーライターがキャッチフレーズを書きます。それをアートディレクターやコピーディレクターが実際の広告案として仕立てていきます。
訴求ポイントをくっきり伝えるには、例えば写真撮影が良いのか、イラスト表現なのか。キャッチフレーズのものの言い方、フォントやレイアウトはどうするか。すべて、当初規定したコンセプトを外さないように作業が進められます。
写真撮る時間がないから、そこはイラストで。なんていう選択肢はありません。写真がベストと判断されたら、現地スタッフを調達するなど、いろんな方法を使って遂行されます。ドラえもんのポケットから便利ツールを出してくる、みたいな。ま、広告キャンペーンの規模や予算にもよりますけど(笑)。
コンセプトを具現化した表現プランができなかったら、例えプレゼン直前でも、徹夜してでも表現を探し直して作ります。
ほら、こんなところはジョブズのやり方と同じ。なので、彼のやり方は僕は理解できます。共感もできる。
で、そうやって作った広告プランを、得意先の会社でどのように決定するか。
全社規模、事業部規模の大きなキャンペーンだと、クライアントの担当や幹部で話し合って提出した案をそのままお買い上げ、ということが多いかな。
だけど、部門ごとの純広告とか、それほど規模が大きくなくなると、まず多数決。だいたいの会社が。イントラに案を上げて、みんなで投票したりして。
で、「A案のこの部分と、B案のこの部分を合わせた修正案が欲しい」という返答もしょっちゅう。
よく聞くと「A案は部長推し、だけどスタッフはB案が良い、って言ったので」などと、ここでも合議制の論理。
こうやって、訴求ポイントやターゲットなど、コンセプトがゴチャゴチャにされた、わけの分からない広告が世の中に出ていくわけです(苦笑)。
なんだかわけ分かんないなー、なんて思える広告は、こんな風にして送り出されたものかもしれないです。たぶん。
※画像はhttp://free-images.gatag.net/tag/graphics より