選べるって、めんどくさい

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麺の硬さはどうしますか? →別に普通でいいです。
スープの濃さは? →フツーで、
油の量は? →いやいやフツーで、、、(全部フツーでいいからとっとと持っこいや!←心の叫び声)

最近、ラーメンひとつ頼むのもめんどくさい。麺の硬さとかを選べるのが流行りらしく、あちこちの店でやっているけど、味に自信がないんじゃないかと勘ぐりたくもなる。
ほかにも某サンドイッチ店などは、注文そのものが難行なので、店にはもう何年も入っていない。

何が面倒くさかったといえば、住む場所さがしだった。
毎週、日曜日の朝早くに出かけて物件を見てそれまでの物件と比較して、ローンを計算して払えるかどうかドキドキしたり。
帰り際に周辺の環境(ヘンな人が住んでなさそうかとか)や駅までの距離とかコンビニやスーパー、住んだら子どもたちが通いそうになる学校(イジメありそう!?)の場所とか、とか。

選択肢があるって、たぶん、いいことだと思うけど。
不必要なほど、手に負えないほどありすぎるのも、負担だ。
ラーメンの麺の硬さみたいに、選ぶほどの価値を見出していない人には、苦痛でしかない。

そんなこんなで貴重な休日をつぶして、帰りのファミレスで家族で晩ごはんを食べながらひと言、「こういうのって、地方の人はやらないんだろうな」とつぶやいてしまった。

地方だと、両親や親戚が持っている土地を借りたりして家を建てる人も多い。上物だけなら一千万円もあれば、充分に家が建つ。
わが家みたいに休日ごとに不動産めぐりなんて苦行をしなくてもすむ。その分、家族とピクニックに出かけたり趣味の釣りとか行っちゃったりして、楽しい人生が過ごせそうだ(ご近所づきあいとか介護とか、いろいろ面倒くさいことがそれあるんだよ、と反論もありそうだけど)。

住む場所はおろか、家業を継ぐなどして生き方自体が決まってる人もいるだろう。
転職サイトとか見ながら「こっちの会社は俺より多くもらえそう、履歴書書いちゃおうかな」というコトもなく。転職ではなく、天職がまっとうできそうだ。

隣の芝生が青く見えない、迷うことなき人生。
なんだかよくない?

不動産からラーメンから服から、
ECサイトからデパートからコンビニから、その商品陳列棚の中身まで、
いろいろあるよ、何でもあるよ、っていうのはひとつの理想かもしれないけど。
(でも、自分にドンピシャ、はそうそうないんだよ)

そんな状況に最近、ちょっと疲れてきた気がしている。

若者はクルマから離れたんじゃない、ほかに好きなことができただけだ。

 日本自動車工業会の調査によると、クルマを保有していない若者の約6割が「クルマを買いたくない」と考えているそうです。若者の車離れを裏付ける結果ですが、クルマが嫌いになったわけではなさそうです。クルマを買いたくない3つの大きな理由 この調査は同工業会が2年に1度

情報源: 若者の車離れは、クルマが嫌いだから? 金銭的に厳しいから?

 

なんだか、もはや食傷気味のテーマだな。

今年1月の日本には、軽自動車とかも合わせて登録されてる乗用車は、61,068,858台もある(国交省データより、バスやトラックは除く)。人口が約1億2千万人なので、ちょうど2人に1台。赤ん坊から100歳以上の老人まで含めて、だ。

これだけ普及してればいいんじゃないの?
必要ない人は買わないだろうし、通勤などで必要な人は買い替えていくんだろうし。

市場規模や経済の状況を考えると、こんな感じに落ち着いてきました、っていうだけじゃないんだろうか。

「クルマが売れない」って騒いでる人は、バブルのときみたいに景気よかった時代がアタマから離れない人なんじゃないかと思う。

 

「若者のクルマ離れ」という話も聞くけど、Jリーグでサッカー人気になったら野球離れが話題になったのと同じ。クルマより面白い、アイドルとかネトゲを見つけてそっちに行っただけのこと。

そもそも、若い人に夢も職もカネもろくに与えないままで、「クルマ買えよ」なんて、どのクチが言ってるんだろ。

僕の成長期、空き地をどんどんつぶしてビルやマンション作る一方で、「最近の子どもは外で遊ばない」「あそび方を知らない」なんてしたり顔で言ってた大人がいたけど、あれとおんなじ。

 

繰り返しになるけど、期待したマーケティングのシナリオから外れると、とたんに「ナントカ離れ」とか騒いでイレギュラー扱いする方がおかしいんじゃないか。

流行とか消費とかでしか世の中を見れないなんて、もはやビンボー臭くないか。貧相とさえ思う。

 

なんだか、今日はちょっとイラだってるので、そんな文章になってしまったな。

 

 

 

広告のコピーと、ウェブのコピーの違いは、これ。

「コピー塾」「コピーの教科書」なんてウェブでよく見かけるけど、それってほとんどの場合、ECとかランディングページで必要になるウェブ用のテキストのお作法とか書き方を記したもの。イケダハヤトさんとかも、こんな風に講釈されてますね。
そんな最近の「ネットのコピー論」を見ていると、これまでの広告のコピーとはちょっと違うと思ったので、まとめてみたのがコレだ!(あえてウェブ風に言い切ってみました(笑))

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ターゲットは、広告の方が広くて多彩。いわゆるマスコミュニケーションになるわけですね。

基本的なミッションは、そういう幅広い人に、とりあえず商品やサービスを知って、分かってもらうこと。それに対してウェブのターゲットは検索などであらかじめフィルタリグされているから、単刀直入に「買って」「サービス利用して」と次のアクションを起すことがミッションになる。

そんな相手に使うコトバは、やっぱり標準的で分かりやすいモノでないと。対してウェブは、SEOを気にしてキーワード設定を細かく決めたりする。場合によっては、とにかくキーワードを使って、文脈は二の次、なんていう人もいたり。

なので、広告のライターがコピーを起す際、目線は読者と同じかそれよりも下の立場から、ということも。オーディオ等“黒モノ”などの場合、ちょっと偉そうに振る舞ったりするけど。

ウェブの場合、商品レコメンドとかハウツーの記事が多いせいか、経験者が未経験者に情報を伝授する、つまり「ライター(提供者) > 読者」の関係性が多い気がする。よってその口調も、上から目線で命令口調だったり。また、ファッションなどではキャラ立ちしたライター(タレント)がオススメするなど、商品よりもライターの方が存在感がある場合も。やり過ぎると、ステマになってしまうわけですが。

で、その伝える方法は、広告の場合、読者にすんなり無理なく届くように語りくちや文脈をよく考えるわけです。そこがコピーライターの腕の見せ所でもあるわけなんだけど。ウェブの場合は、まずクリックされるためにタイトルや最初の数行に凝ったりしますね。それに、キャラ立ちしたライターが断定的にもの言いしたりもするし。なので、ウェブのコピーはどうしても喧しくなる気がする。

ということでまとめにかかると、
広告は認知・共感からはじめるので、ウェブの喧しい口調から比べると、どことなくおとなしい感じは否めないかな。

例えるなら、広告コピーはサッカーや野球のヒーローインタビューの発言。言っている人自身が、社会で認知されている人なので、ファンからは注目される。けど、認知されているが故に、周囲に気を使い、あまり思い切ったことも言えなく、言葉を選びがち。その結果、「がんばります」「応援してください」なんてよくある言葉使いになってしまいがち。

一方で、ウェブのコピーは神様のお告げ。マーケティングで言う、アーリーアダプター(先駆者的な人)とマジョリティ(一般大衆)という関係の中、そこで家電とかコスメとかITガジェットとかFXとか、いろんな分野で教祖的な人がいて、情報を発信し、読者という信者を集める。読者もふんふんと素直に聞いている。そんなイメージ。そう考えると上から目線も断定的な口調も、何となく理解できる。

実はそういうウェブのコピーの作法で支持をガンガンと広げているのが、アメリカ大統領選挙のトランプ候補だと思うんだけど。
表の「広告のコピー」をマケインとかクリントンとか従来型の候補者に、「ウェブのコピー」をトランプ氏に替えてみると、なんか見えてきません? その話は長くなるので、次の機会にでも。

思うツボにはまった! ガリガリ君の値上げゴメンナサイCM

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ガリガリ君って、実は自分の生まれたエリアが発祥の会社で、昔は近所に工場なんかもあって、子供のころから親しんでたアイス屋さん。かき氷をカップに詰めた「赤城しぐれ」で育った(笑)。あれはおいしいよ。
田舎のアイス屋さんがガリガリ君をはじめヒット商品を得て全国区になった。赤城乳業って、そういう会社。

そのガリガリ君、ウィキペディアによれば1981年の発売、2013年は4億8,000万本を作ったっていうから、日本国内だけならひとり4本くらいは食べてる計算になる。僕は2本くらいだったと思うので、食べてる人はものすごい本数食べてる??。

そんな人気アイスが値上げされました。25年ぶりに10円。僕ら大人だと、“たった10円”って思いがちだけど、おこづかい握りしめて近所の駄菓子屋さんとかで買ってる(僕がそうだった)小学生には、きっと大問題だろうな。これまで買えてたお気に入りのガリガリ君が、10円の違いで今日から買えなくなるなんて!!

客のそういう切実さを、この会社はきっと分かってるんだと思う。
10円の値上げにわざわざ「ゴメンナサイCM」を作って、しかもゴールデンタイムに流していた。

CMは工場の正面玄関とおぼしき場所で、社長をはじめ主立った社員がずらり登場する「イナバの物置き」方式のローコスト制作。そんな慎ましいシーンづくりからも、「ゴメンナサイ」の気持ちがひしひしと伝わってくる。
BGMは高田渡の曲らしいんだけど、高田さんは僕より上の世代の人なので、いまいちピンとこない。けどその曲は、25年間踏ん張ったけど値上げに踏み切らざるを得ない工場の人たちの気持ちを見事に代弁していて、思わずこう思ってしまった。

「うんうん、いいよ。分かったよ。みんな苦しいもんね。10円くらい仕方ないよ」ま、CMの思うツボですね(笑)。
「次、またきっと買うから、よろしくね」とも。思うツボ、ドハマリです(爆)。

子どもたちにおこづかいを渡すお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんも、きっとそんな気持ちになったはず。だから10円値上げ後も、子どもたちはガリガリ君にかじりつけるわけです。メデタシ、メデタシ。

これから気温も上がって本格的な需要シーズンになることも考えると、まさにドンピシャの展開だったと言えます。っていうか、まさにそこを狙っていたとも思うけど。

たった10円の値上げに、いったいどれくらいお金と手間を突っ込んだのか。
低予算とはいえCM制作だけでも数百万円かかったでしょうし、在京民放でスポットCM流したり、関係各所への連絡や対応等も考えると、全体で億単位の費用がかかっているでしょう。

「損して元とれ」というけれど、今回の商品値上げにともなう広告キャンペーンは、まさにその好例だったんじゃないでしょうか。
値上げって消費者にとってはイヤなニュースだけど、今回のガリガリ君の一件では少なくとも僕の気持ちは商品やこの会社から離れなかったし、さらに「買おう」とさえ思わせてしまったのだから。

ホント、思うツボですわ(笑)。

売れなきゃ、ダメなのか?

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こんな意見があり、広告の役割について考えてみたりしたりしていたら、この古い広告を思い出した。

 

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画像はこちらより。細かい内容も。

 

広告ならではの語り口がある。

「私たちの製品は、公害と、騒音と、廃棄物を生み出しています。」
だなんて、いまSNSとかで出したら炎上するでしょうね、良くも悪くも。広告だからこそ成り立つフレーズといえるでしょう。

この広告によってクルマを通して環境問題を喚起するきっかけになったし、
ボルボという会社の環境に対する姿勢を、広くみんなが知るきっかけになった。

そういう企業広告、ブランディング広告の好例として、いまも思い出される名作ですね。このボルボの広告は。

広告の役割って?

もちろん、この広告でクルマはすぐには売れないかもしれない。
けれど、この広告を見てクルマを選ぶ基準に「環境」を加える人が増えたかもしれないし、それによって将来的にクルマ選びにボルボをチョイスする人が増えた、かもしれない。

そんなの、効果測定できないじゃないか、って言われるんですよ。今だと。
確かにそうなんですけど、だったら冒頭のFBタイムラインの人が主張している「従業員のモラルアップや社会貢献」も指標化できないですよね。

広告は、モノやサービスを売るためのモノでなければいけない。
けれど、将来の顧客を増やしたり、ブランドや企業そのものの価値を高めるのも、広告の役割だ。

揺り戻しがきそうな気がしてる

いま広告というと、インターネットで、ECで、ひとつの商品をどれだけ効率的に売るか、ということに注目が集まりがち。ビッグワードをいくらで買ってリスティングをかけて、SEOを上げるためにコンテンツを足して、、、とか。

でもそこには、企業と客とのコミュニケーションがない。値段とか送料とかレコメンドとか、そういう現実的なことばかり。僕らと商品の間って、それだけでいいの?と思う。ちょっと飽き飽きしてない??

インターネット化で確かに便利になったけど。なんかギスギスした方向にいきすぎてないか。信頼とか愛着とか、そういう指標化できない絆を企業と客の間で新しく結び直してもいいんじゃないか。そろそろ、そんな揺り戻しがあってもいい気がしている。

その一例として、カップヌードルの新CMがあると思った。だけどそれは、広告業界の人間の欲目かな?

「働き方革命」ってなんだ?

コピーライター歴20年の私が、クラウドワークスの決算発表に突っ込んでみた

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「制作」と「製作」の違い、分かります? 

「制作」は、映画などの創作物を作ること。僕ら広告業界も、こちらの「セイサク」だと、入りたての頃に先輩から教わった。で、「製作」は道具を使ってモノづくりをすること。世の中、そのへんがごちゃごちゃにされているけれど。クラウドワークスもそんな感じがウェブサイトで見受けられる。広告業界でも、かなり混同されてるけどね(笑) 

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平均月収32万円は凄い

そのクラウドワークスが少し前に決算発表をして、ブログなどで話題になった。
僕は広告系の制作者なので、基本、広告やウェブサイト制作の視点になるけど。なので、エンジニア系はあまり突っ込めない。 

平均月収32万円は凄いんじゃないかな、と資料を見て素直に思った。ただ、それは月収20万以上の人の月収という但し書きがつくけど。そういう人は全部で111人。ワーカーさんは全部で80万人というから、稼いでいるのはほんのわずか。割合とか計算するのも面倒なので誰か計算して(笑)。

ちなみに、収入20万円越えのワーカーさんに対する支払総額は38,209,530円、2割のマージンを取ったとして売上げ47,761,913円。差し引きの利益は約9,552,383円、ざっくり1千万円。この期の収益総額が2億8千500万円となっているから、20万円越えのワーカーさんが同社の収益に占める割合は3%ちょっとでしかない。 収益のこういう構造は、楽天の出店者(社)も似たようなものなんだろうと思う。

クラウドワークスの募集案件を見ても、エンジニアの開発案件は50万円とか100万円の案件があるけど、ライティングやデザインの仕事は単価が安い。数百円単位なんていうのもザラ。制作の仕事で多くの金額を稼ぐのは、かなり大変そうだ。 

プロジェクトマネジメントは?

クラウドワークスではもうひとつの“柱”を用意している。上記で説明したのは中小企業向けのプラットフォームと呼ばれるカテゴリ。地方の店舗や小さい企業の細々とした案件を、ワーカーと直接やり取りするものだ。

 それに対して、大きな企業の少し大きな案件をクラウドワークスのスタッフがマネジメントする、大企業向けのプロジェクトマネジメントも用意されている。小さな案件はウェブサービスで数を稼ぎ、大企業向けの案件をは自社で直接さばいて利益を上積みする戦略だ。 

ただこれは、前者の中小企業向けのプラットフォームしか残らない予感がしている。 

昔やったことがある、クリエイターのマッチング

実をいうと僕は、クラウドワークスと同じようなビジネスモデルを手伝ったことがあって。当時、定着し始めたネットを使って、地方のクリエイターをネットワークしてクライアント側のニーズとマッチングさせようとしたわけ。

ただ、ネット上での募集は“自称”クリエイターが多くて、スキルに不安があるし、実際に発注しても納期に間に合わないことも多々あり。修正をお願いしたら“バックレ”られてしまったり。

結局、どの案件も気心の知れたスタッフとリアルに打ち合わせをしながら進める普通の制作ビジネスに落ち着いていった、という経過がある。
今もクリエイター系のマッチングサイトがあるけど、案件ベースのマッチングは限定的。基本はウェブのコーダーや版下作業などの人材派遣がメインになってるし、実際にそのサービスを利用している制作会社も多い。 

何が「革命」なんだろう? 

クラウドワークスを使ってデザインやプログラミングでせっせと働いて、月収20万程度の収入を得る人は、これからも増えていくんだろう。子育てや介護など、何らかの事情で自宅で暮らさざるを得なくなった元デザイナーや元エンジニアという人がいると思うけど、そういった人たちが収入を得る新しい選択肢が増えたと思う。 

クライアントにとっても、例えば地方の小さいショップが開店するときに、ロゴマークなどのデザインもいっしょに店舗デザイナーに任せて、「あんまり気に入ってないんですよ」なんてオーナーさんの声をよく聞いたたけれど、そんなときの解決策としてクラウドワークスの仕組みは有効だと思う。納得のいくデザインがリーズナブルなコストで得られて、その結果、もっと納得いく開店ができて、オーナーさんもきっと満足でしょう。 

せっかくの“うまみ”が・・・

もうひとつの柱である、プロジェクトのマネジメントの方は? というと、たぶんクラウドワークスはシステム会社だと思うので、制作に関する知識や経験が必要とされるプロジェクトマネジメントが、はたしてうまく回せるのだろうか、という心配がある(僕の勝手な心配だけどw)。

だからといってその部分を外注したら、利益が薄くなって、せっかくの“うまみ”がなくなってしまうんですけどね。以前、僕が手伝った会社は基本的に制作会社だったから問題なかったけど。 

制作の分野も2極化が進む?

流通で「中抜き」が横行し、問屋抜き、EC販売が当たり前になったように、制作の世界でも同様となりそうな予感はしている。ただそれは、クライアントも制作者もビジネス規模の小さい、コストコンシャスな領域に限定される。大きなクライアントや制作物では、コストも大事だけれど、クオリティやスケジュールを重視するから、やはりコントロールしやすい相手:大きな代理店や実績のある制作会社に出す、という流れはきっと変わらない。 

ただし、「中抜き」によって中小の代理店や制作会社は苦境に立たされることが多くなるんじゃないか。それによって、大きな案件を扱う大きな代理店や制作会社と、クラウドワークスのワーカーさんのような個人ベースの制作者との2極化がきっと進むはず。 

さて、僕はどっちにいったらいいんでしょう(笑)

東日本大震災、福島原発惨禍から5年。相変わらずな(一部の)マスコミにがっかり。

福島「放射性物質」土壌汚染調査 8割の学校で驚愕の数値が!
ダメだよ、この記事。と、読んだ瞬間、思った。

ただ、大きなテーマなのでよく考えようと思い、翌日、もう一回呼んだ。
ダメだ、という思いは変わらなかった。

念のため、明日もう一回読むことにしたんだけど、思い変わらず。で、このテキストを書き始めたわけだ。

この記事のどこをダメと感じたか。

誰も救われないからだ。

確かに、記事に出てくるママたちは、自分たちが強く不安に思っていることを中央の大きなマスコミに取り上げてもらって、少しは気が晴れたかもしれない。「やっと話を聞いてもらえた。伝えてもらえた」と。

だけど、それだけのことだ。
この記事では、ママたちが不安に感じる放射線のことは、1ミリも解決しない。

それどころか、「福島にはまだ多くの放射能が残っている」と、風評被害を再燃させてしまいかねない。

地域を復旧させようと、必死になって取り組んでいる人がいる。汚染された土壌の改善や地域の人の健康管理、地元の産業復興などで、いろいろな人が熱意を持って活動している。
そんな人たちにも、この記事の伝え方は残念でしかないはずだ。

繰り返し書くけど、この記事では福島の放射線問題は1ミリも変わらない。5年も経ったのに、編集者は何を見て感じてきたというのだろう。
僕が一番ダメだと思ったのは、この記事のタイトル。

『福島「放射性物質」土壌汚染調査 8割の学校で驚愕の数値が!』
スキャンダリズム丸出し。クリックを狙うブログによくある見出し。

ただ、記事をよく読むと、後半では福島の構造的な問題点が指摘されている。日本の社会的な問題ともいえる。僕も共感する部分があるし、いまの時点でこの記事を出すならこちらの部分がメインになるべきではないか。現場の状況がなぜ見過ごされてしまうのか、なぜ、地元の人が納得いく改善が進まないのか、問題提起になるはずなのに。

どうしてこの後半部分が主題にならずに、スキャンダラスな見出し付けと、それを受けるけばけばしい記事構成になってしまうのか。

あの大震災と、福島の惨禍から5年。テレビや新聞、雑誌、ウェブで、復興に頑張る地元の人たちの様子が伝えられている。
悲しいこと、無念なことが起きたけれど、それを乗り越えようとして頑張っている人たちがいる。
地元の人は、前進しようとしている。変わろうとしているのだ。

なのに、この記事を作った人たちは、何ひとつ変わっていないように見える。
原発問題が起きた当初、スキャンダラスな特ダネ報道の競争が繰り返されたけど、あのときの気分がいまだに抜け切れていないんじゃないか。

5年も経ったんだから、報道の姿勢や内容も変わっていくべきじゃないのか。

週刊誌に、いつもいつも高邁な記事を期待してるわけじゃない。
だけど、みんながとても悲しく辛い思いをした、あの事件に関することくらいは、前進しようとする被災地の人を後押しするような、僕たちに問題点を提起するような、そんな記事を作るべきじゃないか。

それともうひとつ。

期せずして「保育園落ちた、日本死ね」のブログが話題を集め、国会ですったもんだのあげく、保育士に特別手当ての予算が組まれるような動きも出ている。

マスコミの役割って、こういうことじゃなかったか。
いまの社会の問題や矛盾を浮かび上がらせ、世の中を動かす。

特に週刊誌は、こんな身近な問題に関する世論喚起が得意なメディアだったはずなのだが。

「起業塾で起業した人の話聞いて、起業なんてできるわけがない」

確かにそうだ。

クルマを運転しようと思って運転している人は、そんなにいない。

本当は、どこかに行きたいからクルマを運転するわけ。
運転は手段であって、目的ではない。
「クルマを運転」という言葉を「起業」に変えれば、すぐに分かる。

そんなことも分からずに、起業塾に行く人がそんなに多いんだろうか?

自分で作ったジュエリーを売りたい、
イタリアのこのおいしいお菓子を日本に紹介したい、
営農で町おこしをしたい、

そういう目的があって、それを効率的にエンハンスする方法として「起業」があるんじゃないか、と。

しかも、起業のスタイルはひとつじゃない。事業によってさまざまなので、塾に行って総論的なことを教わってきても、そんなにすぐに役立つとは思えない。

新しいことを始めるのはとてもパワー必要だ。ロケットが発射するとき、ものすごい量の推進力が必要で、炎と煙に包まれるように、起業には時間も労力も、そして資金もかかる。
越えなければならないハードルも待ち構えているだろう。

そんな困難を乗り越えて、起業を軌道に乗せるには、やはり「○○したい」という企業の目的だったり、それを実現させたいという「夢」じゃないか。
決して「起業」ではないと思う。

だから、冒頭の記事にもあるように、起業塾に通っても成功できる人はいない。そんな時間があるんだったら、自分が売りたいこと、やりたいビジネスを突き詰めて、尖らせた方がいいんじゃないか、と思う。

ベッキーは和田アキ子で、川谷絵音は小林幸子じゃないか。

ベッキーと川谷絵音の不倫騒動が広がっている。ニッカンスポーツから“まとめ”が出されていたほど。最近は、大きなメディアもこういうことをやっているんだ、と妙に感心したり。

川谷絵音が消される!?

話の経過はともかく、僕がこの件で興味を持ったのは「川谷は消されるかも」といったニュアンスの記事が出はじめたこと。なんでもベッキーは大きな所属事務所の所属で、ほかの事務所関係者からも可愛がられているらしい。なので、最悪の場合、そういった“芸能界のドン”たちから、今回の騒動の代償として川谷は追い込まれていく。最悪、芸能界から抹殺されるかもと、まことしやかに。まるで映画「ゴッドファーザー」のような話で、門外漢の僕は逆にワクワクしてしまう。

でも、その記事をウェブで見たとき、ちょっと違和感を感じた。だって、少し前とは時代も状況も違うから。
それと同時に、このコラムで取り上げられていた小林幸子と和田アキ子も思い出した。

オープンな場で人気を広げた「メガ幸子」

小林幸子は、不祥事で一度は失速したけれど、ニコ動などでネットの支持を集めて、「メガ幸子」として紅白復活を遂げた。昨年末に唄ったのがボカロの「千本桜」で、紅白本番中の画面も応援メッセージで埋め尽くされる演出もされていた。

ネットを使って、オープンな場で新たなビジネスチャンスを拡げ、それをモノにしてきた。まさに、フットワークの軽い、いまっぽいビジネス展開。そんなところに僕は好感を持っている。

一方、ネットユーザーから評判良くないのが、和田アキ子。芸能界ではドンのような存在だけど。最近、Twitterを始めたが、ぎこちない運用でかえって反感を買ったりしているらしい。

もはや、陰でコソコソやる時代ではない

和田アキ子の“マーケティング手法”は、旧来のままというか、何もしていないように見える。いいモノは黙っていても売れる、と主張する職人のような頑なささえ感じる。歌が上手ければ、それだけで売れる時代ではないのに。

それに小林幸子のような“オープン感”がない。最近、政治家や企業家が院政をひいたり、さらに最近ではステマのように、陰でコソコソやるのは毛嫌いされる。特にオープンを常とするネットユーザーは敏感だ。和田アキ子にも同じようなにおいを感じているのではないか。

そんなことをつらつらと考えつつ、ベッキーと川谷の騒動を見ていたら、ベッキーが和田アキ子に見えてきた。ルックスではなく、置かれた立場のことだ。念のため。

ベッキーも芸能界で活躍し続けてきて、関係者からの信頼も厚く、業界内では一目置かれる立場になってきた。だからこそ今回の不祥事では、会見が必要だった。この問題にケジメを付け、これからも生きていくために。それがこの業界の習わしだし。それなりの“大物”なので、ゴメンナサイって頭を下げれば、みんなもシャンシャンと手を打ってくれるだろう、と。でも、そういったコソコソ感ただよう業界風習に対して嫌悪感を持った人も多くて(僕も持った)、それもあってあんなに炎上したのではないか。

T-1000と、シュワちゃんのターミネーターの対決?

一方、川谷は小林幸子だ。フットワーク軽く、自分の才能でチャンスや活動範囲を広げることができる。テレビがダメなら、ライブがある、ネットもある。確かに芸能界の実力者は力は持っているだろうけど、そんな広い世界までその力が及ぶのだろうか。メディアや記者は、“芸能界のドンが川谷を潰す”なんて本気で書いているんだろうか。もしそうだとしたら、視野が狭くないか。

今回の騒動で「ゲスの極み乙女。」の活動も危ない、などとも書かれていたけれど、だったら川谷が所属するもうひとつのバンド、「indigo la End」で活動すればいいだけのこと(そこを突っ込む芸能メディアがないのはなぜ?)。

映画「ターミネーター」に出てくる液体金属のT-1000のように、川谷はいろいろなスタイルに変身する。パンチを繰り出すと、カタチを変えてするっとかわしてしまう。そんなとらえどころのない彼を、はたして旧来勢力のような“ギョーカイのドン”やその関係者が潰せるのか。T-1000とシュワルツェネッガーのマッスル・ターミネーターの対決のようで、それはそれで興味が湧く。映画ではよりリアルっぽいシュワちゃんが勝ったけれど、バーチャルなネットがこれだけ普及した2015年のいまはどうなんだろう?

はたして、川谷はこれからも活動を続けられるか、そうでないか。今回、話の発端はくだらない不倫騒動だったけれど、興味がわいてきた(笑)。

“お客様目線”すぎて、TPOを忘れたデザイン。新国立競技場

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スタジアムは、非日常の祝祭空間だ

「どんな試合になるんだろう」「さあ、やるぞ!」
そんなふうに、気持ちが自然と高まってくる場所だった。以前の国立競技場は。

地下鉄の駅から地上に出て、すり鉢状にそそり立った構造物を見あげると、自然と気持ちが昂ぶってくる。これから始まるゲームに対する期待や予感でワクワクしてくる。非日常の空気を身に纏ったあの建物には、スポーツを見に来た人まで“その気”にさせてくれた。

スポーツは演劇や映画などと同様、非日常を楽しむエンターテインメントだ。日頃の煩わしいことはさておき、ありえないようなスピード感やアスリートの瞬間のひらめきに目を奪われ、心ときめく。
そんなスポーツと一体となるスタジアムには、やはり“舞台装置”ともいうべき機能が欲しい。観戦する僕たちを日常から隔絶させ、スポーツや競技と一体となり、熱狂や興奮ををかもし出す雰囲気。そうした、祝祭空間としてのカタチや機能がとても大切だと僕は思っている。神を祀る神社には神社の、教会には教会の、それぞれの建築の“文法”のようなものがある。ちょっと強引かもしれないけれど、そうした文法がスタジアムにもあると思うのだ。

昔の国立競技場には、それがあった。日常の景色にはない、あの逆反りの巨大な構造物とそれを支えるための大きな柱が円を描いて立ち並ぶ光景を見ると、僕自身のスイッチが切り替わった。
そしてスタンドに座ると、まわりに建ち並ぶビルの光景が、スタジアムの楕円のカタチにくりぬかれ、そこだけ孤絶しているかのような空間。東京のど真ん中にいながら、見上げると空しかない。そこはスポーツを純粋に楽しむ人だけの空間になり、そこだけ特別な時間が流れ、熱狂や興奮が生まれていた。

アリアンツ・アレーナはドイツサッカーのシンボルに

実際に行ったことはないけれど、サッカーのドイツ・バイエルンミュンヘンの本拠地、アリアンツ・アレーナ(下の画像)は現代の祝祭空間として出色だと思う。
パッと見ただけでも新しいデザイン。巨大な繭のような構造体につつまれ、選手とサポーターとが高密度に一体となる。サッカーという競技を通して感動や興奮が紡ぎ出される。まさに、非日常の祝祭空間だ。
この競技場は2006年のドイツ・ワールドカップのために建設されたもの(日本チームはジーコジャパンのとき)。そのデザインは、いまではドイツサッカーのシンボルにもなっているようにも思う。建設の資金はバイエルンミュンヘンが調達し、その金額は約3億5千万ユーロ(約500億円)だったそうだ。

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カンプノウも約800億円で建て替えを計画中

スペインサッカーの名門、バルセロナにはカンプノウがある。8万人収容のスタジアムにまで拡大されたが、建築から60年近くたち、建て替えが発表された(下の画像)。2015年に決定されたプランは収容10万人規模、ミュンヘンのスタジアム同様、包み込まれるようなデザインだ。中国オリンピックの際に建築された北京のスタジアム(北京国家体育場)なども見ると、包み込むように外界と隔絶するのが最近のスタジアムのトレンドなのかもしれない。
バルセロナの計画では、2017年に着工、2021年に完成予定。総工費は6億ユーロ(約800億円)を見込んでいる。

そしてまた、私たちの国立競技場も建て替えることになったわけだけれど。1960年代に設計・建築された祝祭空間が、2015年のいま、どのようなカタチに生まれ変わるのか、どのような仕組みが備わるのか、僕は非常に注目していた。

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早く、安くできるプランを採用した、日本の新国立競技場

最終コンペで提案された、隈研吾さん擁する大成建設のA案も、伊東豊雄さん擁する竹中工務店はじめ3社JVのB案も、オーソドックスな屋根付きスタジアムのデザイン。どちらも同じようだと思った。

日常から乖離させ、スポーツの興奮をどれだけ沸き立たせてくれるか、どちらが祝祭空間としてふさわしいかという視点で見ると、どちらかというとB案の方かな、と僕は思っていた。

最終的にA案に決定されたが、日経の報道を見てビックリ! デザインの評価よりも工期短縮やコスト縮減に重きが置かれていたからだ。

■委員1人あたりの持ち点
業務の実施方針:20点
コスト・工期:70点
施設計画:50点
合計140点×審査員7人=980点満点

つまり、早く、安くできる方にしたい。施設本体のデザインや機能は二の次だ。という決め方だったわけだ。評価点の配点を見る限りでは。

そして、各項目の審査結果は以下の通り(上記リンク先より)。

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よく見ると、B案の方がデザイン(施設計画)の評価ではリードしている。「ユニバーサルデザイン」「日本らしさ」「構造計画」「建築計画」などで得点を稼ぎ小計は270点。A案は246点。その差、24点。

A案が強みを発揮したのは、コスト・工期の領域。特に工期短縮ではB案に27点もの差をつけて、小計で252点を稼いだ。
それに対してB案は228点、A案との差は24点。デザインで稼いだ得点をはきだし、まったくのイーブンに。
評価を決したのは、結果的に「業務の実施方針」の得点差、8点だったということに。

A案の大成建設グループはもともと旧計画の本体部分を工事を受注予定で、そのための計画を練っていたのでアドバンテージがあった、と日経の記事は伝えている。
ちなみにA案の「整備費」は1489億円。一国のナショナルスタジアムを建築し、その周辺を整備するコストなので、バルセロナのカンプノウとは純粋に比較にならないとは思うけれど、それにしても「高い」という印象は拭えない。

そしてデザインは、“そっちのけ”にされた

確かに、前のハディドさんのプランはいろいろな意味でビックリが多かった。デザインの特異さをはじめ、異様とも思える大きさ、奇抜な構造など、そのすべてに。
「なんだコレ!?」最初見たとき、僕もそう思った。しかし、完成して実際にこの目で見たら納得できるかな、とも思っていた。バルセロナで建設されているサグラダファミリア大聖堂のように、というのは言いすぎか(とはいえ、別のデザインもあるのでは? とも思っていたけれど・・・)。

そうしたデザインプランの難解さに加えて、どんどんふくらんでいく工期と建設費、さらにそれらが決定されるプロセスの不透明さ、担当する部署や責任者の不可解な対応などが社会から批判され、結局、イチからやり直しとなったのは周知の通り。

今回は、まずデザインありきだった前回の決め方からガラッと変わって、総合的な建築計画で争われた。そこで重要視されたのは、工期や建設コストといった、前回に批判が集中した点だ。まさに「あつものに懲りてなますを吹く」という感じ。それが如実に表れたのが、採点の配点といえる。

一方で、デザインは犠牲にされた。そっちのけにされた、と言ってもいい。配点の通り。
そもそもコンペ公示から提出までわずか5か月という短期間で、ろくなデザインができるわけがない。新しい構造や素材があっても、時間とコストに縛られて既存の工法や実績のある手法に頼らざるを得ないのは自明。
さらに、ハディドさんの轍を踏まぬように、思い切ったプランには外部から強烈なブレーキがかけられたことも想像に難くない。
そんなあれこれを考えれば、目の覚めるような良いデザインなんて、今回は望むべくもなかったわけだ。

すべては、
スケジュールに間に合わせるために。
予算内に収めるために。
社会から批判されないように。

そうして、新国立競技場の建設計画が決定された。
いってみれば、今回の決定は、世間の評価といった“お客さま目線”が最優先されたカタチだ。
その一方で、スポーツスタジアムが本来持つべき祝祭空間としてのデザインや機能性は置き去りにされてしまった。TPOが感じられないデザインに、結果的になってしまった。

僕は冒頭に書いたような、ワクワク、ドキドキを感じさせてくれるような、そして日本のスポーツのシンボルとなるような新時代のスタジアムを夢想していた。例えるなら、アリアンツ・アレーナの次世代・日本版だ。
日本にはカーボンや薄膜といった新素材がたくさんある。建築土木の技術も優秀だ。隈さんや伊藤さんといった建築デザインの才能も豊富だ。
これらを結集すれば、2回目の東京オリンピックを象徴するものすごいものがきっとできる、と期待していたのだが。

※Top画像は2012年1月1日、サッカー天皇杯決勝