日本は消費ばかりで、文化がなかなか育ってないんじゃないか、と思う件。

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「オワコン」って、そういえば最近はあんまり聞かなくなったなぁ。「オワコン」がオワコンになったのか(笑)?
もともとはアニメおたくたちが使っていたコトバなので、アニメなどのコンテンツを指して「終わったコンテンツ」なんだそうだ。それが拡大解釈されて、商品やサービスまで範囲を広げるようになった、とGoogle先生が教えてくれた。
ただ、こういう「オワコン探し」って、けっこうみんな好きだよね。
人気のタレント、ブームや流行がひと通り消費されると「終わった」「オワタ」などとTwitterや2ちゃんねるで囁かれる。事件やトラブルがあるとそれに絡む会社や人間、タレントたちも同様。
オワコン探しては、レッテル貼って、次の目新しいコンテンツを探す。そんな繰り返し。
いってみれば、消費するだけで、蓄積しないんだな。
商品やサービスに限らず、カルチャーとかスポーツとか、そういうわりと根源的な事象に関してもこれまでは消費ざんまい。
Jリーグができたら野球をオワコン扱いにしたり、
海外サッカーがオモシロイとなったら、こんどはJリーグをオワコンにしたり。
そういう、尻軽なサッカーファンが実際に僕の知り合いにいる。
アニメの他にもアイドルとか、つねに新しい“コンテンツ”を探して、それをTwitterなどで自慢し合うのがステイタスになってるみたいだし。
新しいモノは確かに刺激的で面白い。
だけど、そんなに次々に新しいモノ、面白いモノが出てくるのかなぁ。
バブル時代、「ニューモデル」ってカタログに書きたくてグリルのデザインを変えただけのクルマとか、色だけちょっと変えて「新発売」されるラジカセとか、そういう商品がいっぱいあった。
あの時代はいわば、新商品の大量生産・大量消費だったと思うんだ。
なので、「オワコン探し」とそれに続く「新コンみっけ」ごっこには、なんだかあんまり共感がわかない。
それより、そろそろ「文化」として育つようなコンテンツも増えてほしいな、と思うんだ。
以前、F1を鈴鹿サーキットに見に行ったとき、感動した。
1987年にリスタートしてから、30年近く。観客席には思い思いのスタイルでレースを楽しんでる人がたくさんいた。
「このレースのために、一年間、貯金してきた」「サーキットのテントで寝泊まりして、好きなドライバーを応援するんだ」「小学校のときから見ていて、去年就職した」という人もいたし。
そんな人と話してみると、ホントに普通の人で、でもF1が心底大好きで、観戦を心待ちしてきている。ドライバーやレースについて、濃ゆい話をする人もいるし。
F1が文化として根付いてきたんだな、と感じたんだ。
ちなみに、ESPNやBBCなど海外のニュースサービスで、スポーツのカテゴリーの上位には必ずF1も入っている。日本での野球のように、社会一般の文化というかエンターテインメントとして広く根付いているからだ。日本の一般社会ではオワコン扱いされてるけど。
オワコンのレッテルを貼ってぽいっとゴミ箱に入れてばかりではなく、たまには「よさげ」なモノをみんなでじっくり育てたり。そんなベクトルも、もっとでてきてよくない? 
そういうのを、成熟社会、っていうんじゃないか。

ショップメールは、お客様に「いらっしゃいませ」って挨拶するのと同じだと実感した例。

「いらっしゃいませ」って言えないお店みたいだよな、と思ったのでした。いや、今どき問い合わせメールの返事さえも返さないような店のことです。
クルマのタイヤを替えることになりました。
まずはタイヤ本体の値段をネットで調べたり、リアルの店舗に電話で聞いたり。そうしたらなんとビックリ!
ネットなら約7万(4本/送料込み)の価格が、
リアルだと16万円!! これは後述する組み替え工賃込みの値段なのだけど、これだけ価格差があったら、もはやリアル店舗に頼む気になれない。
あらためて、ネットの価格破壊を実感したわけで。
ただし、タイヤは組み替えという作業が必要です。最近は、古タイヤに対して廃棄料も払わないといけません。
商品を依頼したネット店舗はタイヤ販売だけなので、自宅近くで組み替えをしてくれる場所を探さないといけません。
そこで、また検索。
すると、ありましたありました! 僕のような「ネットで買って、工場で取り付け」の人たちのために、専用のマッチングサイトなどもあり、すぐにいくつかリストアップ。
さっそく、問い合わせのメールを打ったところ、4件中なんと2件がナシのつぶて。返事が来ない。
こういう作業や行程が面倒くさいひとは、16万円払ってリアル店舗で一気にやるんだろうな、とも思ったのですが。
ただ、残り2件のうちの1件がとてもていねいな対応で、問い合わせメールにすぐに返事が来たり、先方から確認メールをわざわざ送ってきたり。こちらが恐縮して「ありがとう」と打つと、ほどなくして「お待ちしてます」と帰ってきたり。
メールって便利だけど、顔を合わせてるわけじゃないから、今回のように初対面どうしの場合、きめ細かく対応しないと、行き違いが生まれたり、不信感が出てきたり、ということもよくあります。そういうデメリットを承知の上で、しっかりメールというツールを利用しているという感じでした。
そのお店のウェブサイトを見ると、町の小さな自動車工場で、決して人手は多そうにないんですが。メールのやり取りを通じて、僕は「安心して任せそう」という気になってきました。実際は、作業をお願いしてみないと分からないんですけどね(笑)
商売は、お客様とお会いして「いらっしゃいませ」から始まります。いまどき、リアル店舗でもウェブサイトも構えて、問い合わせをメールでも受けているようなら、せめてすぐに返事を戻してくれないと。
冒頭にも書いたけど、メールの返事もよこさないような店は、店頭で「いらっしゃいませ」も言えないのと同じ。
「ネットの時代になって、お店の商売が儲からなくなった」という話をあちこちでよく聞きますけど、ネットの時代になったからこそ、そういう基本的なことをきちんとやっていくことが大事なんじゃないの? とも思ったりしたのでした。

「知恵ある人」だからこそ。

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福島原発事故の検証番組ですね。解釈によっては原発否定にも、あるいは事故当時の生検だった民主党批判にも取れる番組なので、衆議院選挙後のこの時期になったのか、なんて勘ぐりながら見てたり。
時間が経ったことで出てきたデータや事実、実験結果などをもとに、事故当時の問題点を探っています。放射性物質の大量放出のデータや、その状況を再現したアニメーションは、ちょっとショッキングでした。
でも、「結局、使う人間の問題だよな」と。
“原発安全神話”を作り出し、対策をないがしろにした設計、運用の誤謬だよな、と。
同じような人がいまも職に就いているらしいけど、果たして、そういった根本的な姿勢は変わったのか、何だかとっても疑問。
例は違うかもしれないけど、クルマの日産が長年赤字を垂れ流し続けてもなかなか組織改革できず、結局、外部からカルロス・ゴーンさんを招聘して生まれ変わった。あれと同様に、例えばレギュレーションを決めるなら、アメリカやフランスなどの外部の識者に加わってもらうとか、運用も同様にするとか。そのくらいの“荒療治”が必要なんじゃないか、と。
僕は、原発はあってもいいと思う。確かに、この番組でも明らかになったように、未知の領域が多く、危険な技術。ハイリスク・ハイリターンなエネルギーともいえる。
だけど、危ないからといって、ここまで開発してきたことを捨ててしまうのもどうか、と。
僕らが小さい頃、まだ小学校でえんぴつを使ってた頃、えんぴつを削るボンナイフは危険だ、ということで学校や家庭でいっせいに使用禁止になった。そのおかげでナイフはおろか包丁も使えない子どもが増えて、例によって「最近の子どもは・・・」と説教垂れる大人まで出てくる始末。使わせなくしたのは、あんたたちだよっ!
今どき、危ないものはいくらでもある。
ナイフの他にも、クルマは人を殺すし、インターネットではテロも起こせる、人智を凌駕するAIも出てくるかもしれない、なんて言われてるし。
危ないから、といって、止めてしまうのか。進歩や進化を止めてしまっていいのか。
「ホモ・サピエンス=知恵ある人」を名乗るなら、科学や文明を正しく使う知恵を発見して、それを利用して、もっといい明日を作っていこうよ。
僕はそっちの方が、次の世代のためになると思う。
※画像はリンク先より

日本人とコンセプト:広告はコンセプトありき。

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まえと、そのまえからの続き。
ちなみに、広告制作の世界では、基本、コンセプチュアルなやり方で進められます。
誰をターゲットに、どんな訴求ポイントで制作するか。ディレクターが規定したコンセプトに基づき、デザイナーがラフスケッチを描き、コピーライターがキャッチフレーズを書きます。それをアートディレクターやコピーディレクターが実際の広告案として仕立てていきます。
訴求ポイントをくっきり伝えるには、例えば写真撮影が良いのか、イラスト表現なのか。キャッチフレーズのものの言い方、フォントやレイアウトはどうするか。すべて、当初規定したコンセプトを外さないように作業が進められます。
写真撮る時間がないから、そこはイラストで。なんていう選択肢はありません。写真がベストと判断されたら、現地スタッフを調達するなど、いろんな方法を使って遂行されます。ドラえもんのポケットから便利ツールを出してくる、みたいな。ま、広告キャンペーンの規模や予算にもよりますけど(笑)。
コンセプトを具現化した表現プランができなかったら、例えプレゼン直前でも、徹夜してでも表現を探し直して作ります。
ほら、こんなところはジョブズのやり方と同じ。なので、彼のやり方は僕は理解できます。共感もできる。
で、そうやって作った広告プランを、得意先の会社でどのように決定するか。
全社規模、事業部規模の大きなキャンペーンだと、クライアントの担当や幹部で話し合って提出した案をそのままお買い上げ、ということが多いかな。
だけど、部門ごとの純広告とか、それほど規模が大きくなくなると、まず多数決。だいたいの会社が。イントラに案を上げて、みんなで投票したりして。
で、「A案のこの部分と、B案のこの部分を合わせた修正案が欲しい」という返答もしょっちゅう。
よく聞くと「A案は部長推し、だけどスタッフはB案が良い、って言ったので」などと、ここでも合議制の論理。
こうやって、訴求ポイントやターゲットなど、コンセプトがゴチャゴチャにされた、わけの分からない広告が世の中に出ていくわけです(苦笑)。
なんだかわけ分かんないなー、なんて思える広告は、こんな風にして送り出されたものかもしれないです。たぶん。
※画像はhttp://free-images.gatag.net/tag/graphics より

日本人とコンセプト:やったことないので、分からない。その例?

まえの続き。
コンセプチュアルなやり方は、やったことがない人にとっては理解できない。その実例として。
昔、カーナビの開発関連の作業でのこと。
発注側の開発部長はこう言いました。
・検索のインデックスを作ってほしい
・地図データが揃ってないエリアがあるけど、そこはブランクでかまわない
・データが揃い次第、追加していく
それに対して受注側の開発者は、
・インデックスが追加されることもあるので、データが揃わないと着手できない
との一点張り。打ち合わせは平行線のまま。ま、開発ツールの制約とかもあるので、ぴったり当てはまる例とはいえないかもしれないけど。
ただ、この直後ぐらいから「オブジェクト指向」というコンセプチュアルっぽい開発手法も出てきましたが。
部長側は、コンセプチュアルな手法でやってほしい、といってるのに対し、
開発側は、積み上げる方法でしかできない、ということかと。
川上から降りるか、川下から上がっていくか。
どっちにしろ、同じ場所に辿り着こうとしているんですけどね。
ただ、合議制の場合は「みんなの意見」という不確定要素が往々にしてあるので、
「着いてみたら別の場所だった」ということがあるような。
そんな例は、また次のエントリで。
※画像はhttp://www.flickr.com/photos/e3000/8498378262/in/photostream/より

日本人とコンセプト:やったことないので、分からない。

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スティーブジョブズのようなアイデアと実行力で、現状の打破を!なんて。
少し前、スティーブジョブズ待望論が日本で起こってました。

目標設定、
実現へのアプローチ、
決断力、
そして実行力、などなど、
これからのモノづくりが見習うべき要素がいっぱい! みたいなことを言う評論家の先生とかをよく見たんですけどね。一時期。
でもね、無理ですよ。日本の企業で。
起業したばかりとか中小企業だったらいざ知らず。
ジョブズは、コンセプチュアルなやり方だった。
最初に目標、到達点ありき。しかも、とても具体的に緻密にプランニングされていた、と聞きます。Appleの社員は、言ってみればジョブズのプランを実現するために働いた、ともいえる。
で、一切の妥協を排して目標の実現をめざした。それができない場合は、例え発表間近であってもやり直させたり。iPhoneも、そういう製造手法でできた商品。
でも、そんなやり方、日本人は教わったことがない。体験したことがない。だから、できない。と思う。
だって、
学校では、学級委員会で多数決。
会社に入ったら、上司を含めて合議制。
みんなで意見を出し合って、みんなで納得しないと進まない手法。
ちょっとでも強引な人がいると、「ワンマン」とか言っちゃって排除しようとしてません?
最近は「リーダー育成」を掲げる学校もあるようだけど。どんなやり方やってるんでしょう?
こうした流れがあるせいか、日本の会社はおおむね合議制で仕事を進めていきます。
で、たまに上長や社長から「ツルの一声」があったり、それが多いと「ワンマン」と下の社員から烙印を押されたり。最近は「ブラック」という称号?も。
そんな職場も長く続けていると、「しきたり」「慣行」ができて、それらをもとに「場の空気」が醸成されて。それに染まらないと、「変わり者」とか言われたり。
そういう中に、スティーブジョブズが来て、彼の流儀で仕事を進めたって・・・結果は、火を見るより明らかなんじゃないですか。
※画像はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/スティーブ・ジョブズ より

政策って、あった?

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景気をよくするとか、そのために命をかけて頑張るとか、原発止めるとか続けるとか、子どもたちを戦争にやらないとか、とか、とか。
政策というより、お題目ばっかり聞かされていたような気がする。
ちなみに「題目」とは、
  1. 書物や作品などの標題。
  2. 討議や研究などで、問題として取りあげる事柄。
  3. 日蓮宗で唱える「南無妙法蓮華経」の7字。
  4. (多く「お題目」の形で)口先だけで、実質のともなわないこと。「お―ばかり並べる」
 
僕としては「2」を期待したいんだけど、どう考えても「4」にしか当てはまらないような、、、
アベノミクスを批判するのは良いけど代案がない、とか、
原発止めるんだったらエネルギー予測とそれに基づくコスト計算=将来像はどうなる?
TPP離脱するんだったら日本の農業や生活の将来像をどう描くのか、
集団的自衛権を否定するなら日本はどんな立ち位置を取るのか、
とかとかとか、いっこうに説明ないまま。
共産党は「原発を止めてもやっていけてるじゃないか」といってたけど、CO2の問題や、貿易赤字の件は言及なし。
パッと見ただけでも、実現の可能性や方法論が詰められてないし、それより何より、将来像がぜんぜん見えない。
要は、コンセプトがまったく感じられない。
あるのは、現実=政治だったら自民党の政策に対する文句、単なる反論、あるいは罵詈雑言。
文字通り「建設的」な提言、ないしは未来像を提示してくれるところは、ほぼナシでしたね。
次世代の党が、日本の進む先を示唆していたように思えるのと、
維新の党が、現状打破のための道筋を示していたのが、記憶に残ってるくらいかな。
基本的な方向性を打ち出し、それに基づいて施策を発信する。
そんな、コンセプトに基づいた戦略とか戦術を展開している政党は見当たらない感じですね。
そもそも、日本人ってコンセプトに基づく展開って、苦手。というか、やったことないので分からないんだと思う。
それはなぜ?というのは長くなるので、次回以降に。
※画像はhttps://www.facebook.com/ld.blogos/photos/a.360931943932918.106088.161962970496484/1026486657377440/?type=1&theaterより

あの、朝日新聞が・・・

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どこがやってるの? と思って調べたら“あの” 朝日新聞でした。
サイトの中をよーく見に行かないと企業名が書いてないのは、昨今の風潮に気兼ねしたの? なんてイジワル気分にもなってしまうけど。
ニュースを掲載するだけでなく、記事に対して読者からの疑問や要望を受け付け、朝日新聞の記者がさらに取材をし、記事を加筆したりする、という新スタイル。SNSの双方向+マスコミの取材力、みたいな?
例えば、、、
10月6日に寄せられた読者からの質問に答えて、10月17日に下記の時事が出ている。
【お答えします】エボラ出血熱、日本で発生したらどうなる?
その他、関連情報や朝日新聞記事のリンクなども掲載され、読者の「もっと知りたい」というニーズに応えられるようになっている。
新聞記者が取材してきた、というのは、ポイント高いと思う。ヤフー知恵袋なんかよりは信頼できるし。こういうことは、まさに新聞社しかできないことだよね。
ふむふむ。
Topにある記事を見ても、面白そうなトピックが並んでる。TwitterなどSNSの情報をもとに起こした記事もあるけど、いま評判の悪いバズサイトのように内容やリンク先のコピペではなく、記者による記事内容の検証などもあわせて掲載され、より信頼性を高めよう=ニュースの価値を高めようともしている。
ゴミの山のような「ネット情報」の中から、これは、と思えるものを見つけてきて、ホコリをはたいたり、きれいにしたりして「見れる」「読める」ようにするには、リソースや情報、パワーのあるマスコミの得意技なわけで。
なるほど。
やればできるじゃん! 朝日新聞!!
(でもいまとってる新聞は、来月満期なので解約しちゃうけど)
※画像はhttp://withnews.jp/aboutより

俺たちのユキヒコ!

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「さ・と・お! さ・と・お!」
味スタに、コールがこだましました。あれは、2005年あたり、清水戦だったか。
コールの対象は、佐藤由紀彦。
2002年までFC東京に、その後、横浜Fマリノスや清水エスパルス、柏レイソルなどを渡り歩いたMFの選手。
僕が東京のゲームを見始めた頃、彼は右サイドに君臨していた。エンドラインぎりぎりから挙げる彼のシャープなセンタリング、そのボールの軌跡、そこから生まれるゴール、歓喜!
「ユキヒコ、ユキヒコ、俺たちの〜♪」
ゴール裏でよく唄われていたチャントは、いまも耳に残ってる。
そのユキヒコも、注目株だった石川直宏選手に追われるようにして東京を後にしたのが2003年。
アウェーチームの選手として、東京のホーム、味スタに戻ってきた。
そこで東京のゴール裏から起ったのが冒頭のチャントだったわけ。
あのとき、佐藤選手はボールをロストしてタッチラインを割ってしまった。ちょっと情けないプレー。それに対してわき起こったチャントだった。
そのミスを揶揄したのか、俺たちの元アイドルを叱咤劇励したのか。僕は後者だと思ったけど。
もはや「ユキヒコ」ではない。
敵チームの「佐藤選手」である。
だけど、自分たちにとっては忘れられない選手。
そんなジレンマというか切ない気持ちが、「さ・と・お」のチャントにこもっていたように思えた。
東京のゴール裏は、口は悪いけど、愛情は深い。
J2の長崎で選手を続けているのは知っていたけど、どうしているのか、気になって調べてみたら、ことし引退を決意した、とあった。
ブログにもエントリが載っていた。
おつかれさま。
あのセンタリングの軌道は、いまでも憶えているよ。
そして、フットボールは続く。
※画像はhttp://blog.jplayers.jp/sato/より

そこは、入ってくるところじゃない。

「それは余計なお世話だよ」
思わず、ちょっと声を荒げてしまった。
昨夜のこと、友人から電話があって。
ひとしきり、くだらない話のあと、子育てにかかるお金の話に。
あいにく、その友人には子どもがいない。欲しかったけどできなかったのか、自分たちの意思で作らなかったのかは知らない。僕が感知することではないし。あいつから話してくれば、聞いたかもしれないけど、話してこないし。
誰しも、立ち入って欲しくない部分があると思う。いくら長いつきあいでも。
そういうところは、とくに関わらないようにしたいと思ってる。気を回しすぎかもしれないけど、僕がそうしてほしくないから、他の人にもしないだけだ。
だけど、どういうわけか、昨夜の彼はその“一線”を越えてきちゃったんだな。
子育てにはカネがかかるだろう、それも二人もいるとなるとなおさらだよね、僕の友だちにもいまヒーヒー言ってるのがいるんだけどさ、いますごいかかるんだよね?
途中から、黙って聞いていられなくなった。
経験ないのに、知ったクチきくなよな。お前には別にそんなことどうだって良いことじゃないか。そこは俺が触れてほしくないところ。例えお前でも、訳知り顔で首を突っ込んで欲しくないな。
帰宅して一段落、さあこれからビールでも飲もう、というときだったせいもあって、イライラもボリウムアップ!
そう。ワイドショーとか見ていても思うんだけど、イラッとくるのが、訳知り顔で首を突っ込んでくるリポーターたち。そして偉そうな顔して毒にも薬にもならないことをいうコメンテーターという役の人。あれと同質な感触を、電話の友人にも感じてしまったんだな。
そんな話したって、共感も感動も、なんにも生まれない。
それどころか、当事者にとっては迷惑だったり、苦痛を感じたりするだけ。
「切るよ」と言って電話を置いて、ビールを一杯。少し落ち着いた後、
「俺って、そういうコピー書いてないよな」なんて、自分の仕事を思い出したりした。