便利さと楽しさは、相反するのか。[ iPhone8に機種変した。移行のやりかたなども]

iPhoneをアクティベートしていくプロセスで、「クイックスタート」という画面が表示される。
その画面のとき、隣に古いiPhone(iOS11以上マスト)を置いて画面の指示通りにホームボタンを押すと、なんと!
古いiPhoneから新しいiPhoneへ、データや設定を移してくれる。ひさびさの作業だったので、知らなかった。あまりの手軽さにビックリ。

アプリの種類から画面への配列、撮った写真、音楽などの各データはもちろん、メールアドレス、アプリ内の各種設定なども全部。
データ移行のときに一度画面が消える。で、その3分後くらいにすぐに画面復帰。

見ると、アドレスデータなど当初使うのに必要なデータが移行されている。
電話したり、メール確認ぐらいなら、もうできる。
ラインは移行前にアプリ上で「アカウント引き継ぎ設定」をしておいたおかげもあるのか、パスワード入力したらすぐに使えるようになった。

画面上のアプリ配置は前から使っていたそのままなので、戸惑いがない。
Facebookなど、ログインが必要なアプリやウェブサイトは、iCloudのキーチェーンが憶えてくれていて勝手に入力してくれる。入力欄にIDが表示されない場合は、キーボード入力画面の変換候補の欄に、IDの候補が表示されているので、それをタップすればいい。

なんだ、簡単。

容量の大きなアプリや画像、音楽などのデータはこれからゆっくりダウンロードされていくようだ。実際、多数のアプリの色が半調になっていて、アクティブにはなっていない。
僕の場合、画像が約7,000枚あったので、これをダウンロードするのに二晩かかった。これもiPhoneが勝手にやってくれた。

基本、データはiCloudに同期してあるものをダウンロードしている。Macは近くにいるMacデバイスを検知するAirMacという機能があるので、それを使って新旧iPhoneどうしを認証、ペアリングさせているんだと思う。

便利になったもんだ。
iPhoneだけでなく、Macも移行が簡単になった。最近、MacBookも買い替えたのだけど、ついにWi-Fiで(ということは無駄にケーブルを買わずとも)データ移行できるようになっていた。

ただね。楽しくないんだ。
せっかくiPhoneが新しくなったのに。

一番最初に買った3GSや、それを4Sに換えたときとか、持って眺めて触って、電源入れてあちこちタップして、ビックリしたり感心したりしてたんだけど、ああいう楽しみが「8」にもなると、薄くなってしまって。

考えればiPhoneもかれこれ4台目。ウィキペディアを見ると、「iPhone」と名のつく機種は全部で13台も出ている。

ニューモデル発表ごとに、昔は「おー!」とビックリするネタがあった。新潟・燕三条で磨き上げられたピカピカの筐体とか、内蔵センサを使ったシミュレーターとかVRのアプリとか。

でも、発表を重ねていくうちにそんな新ネタも出尽くしてきた感じ。ネタ涸れ。新技術なんて、そうそう出てくるわけでもないので、これは仕方ないことだな。

とはいうものの、ここまで暮らしとか仕事にしっかり入り込まれちゃったら、買い替えないわけにはいかなくなって。
僕の場合、Lineなどのアプリ起動やウェブページの表示に時間がかかるようになったことが仕事先で特にネックになってた。
どうもこれはAppleの意図的な要素もあったらしいけど。

それやこれやで、新しいモノにワクワクしながら機種変した、というよりは、ほとんど義務感。
ちょうど、運送屋さんがトラックを定期的に入れ替える、みたいな。
(最近のトラックは衝突安全とか快適性の向上がすごいから、こっちの“機種変”の方がワクワクするかもしれないw)

そんな気持ちで機種変したせいもあって、どちらかというと便利さが目に付いた。
前モデルの使用感がそのまま新機種にも、時間や手間をかけずに移行できた、という点で。
楽しさは減ったけど、便利さは高まった。本当は楽しくて便利、が大好きだけど、いくらiPhoneとはいえ、難しいんだろうな。

ひとことで言うなら、
革新的だった製品がだんだんコモディティ化するプロセスを体験している、

そんな、コモディティな日。

むかし使ってたiPhone4S。まだ手元にある

タダは、クズと同じ。必要な情報は、お金を払って取得する時代だ。

情報がタダの時代、フリーミアムの時代は終わった。と僕は思う。

だって、タダの情報はくだらない。このあいだのウェルク事件が良い例だ。タダ情報は、広告の提灯持ちでしかない。

ワンちゃん猫ちゃんとかの癒やし系画像のオンパレードにも、そろそろ飽きた。あれも使い回しの既視コンテンツが多くなってきた。そうそう“新鮮”なコンテンツは出てこないんだろうし、出てきたとしても著作権の関係でおいそれとパクって引用してこれなくなったんだろう。

たまに良質な情報があったとしても、広告がウザい。最近はムービー広告をオーバーレイで噛ませるコンテンツもあり、表示に時間がかかったりして、ほしい情報にありつくためのハードルというか僕のストレスがどんどん高まっている。
そのくせ、そのイライラをこらえて見た情報は、どこかで読んだ話だったり、どうでもいい無難な主張に終始していたり。
脱力感だけが残る。

そんな中、ちょっと古いけど、こんな記事が目に止まった。ギョーカイの人もやっぱりそうなんだ、と妙に納得。
 

 

「アドブロック」の世界的な広まりは、広告収入を損なうパブリッシャーの大反発を買っている。だが、クリエイティブ・エージェンシーの重役である著者は、バナー広告がユーザー体験を損ねてきたとし、広告のあり方を考え直すときだと訴えている。

情報源: 広告業界人だけど「アドブロック」を使ってみた結果:「ユーザー体験が劇的に向上して驚いた」 | DIGIDAY[日本版]

 

 

先日、家人が民放テレビのドラマを見ていてブツブツと文句を言い始めた。
ドラマの内容ではなく、コマーシャルの多さだ。最近のドラマは始まってから30分くらいたつとコマーシャルが分厚く流される。ちょうどその時間にさしかかっていて、3分以上たってもコマーシャルが流され続けていた。

9時きっかりとか正時の番組替わりの時間帯は、チャンネルを回されるのを防ぐためにコマーシャルを抑えコンテンツの見どころをギュッと流す。その反動で、番組の中ほどの時間帯になるとコマーシャルがどっと流されるわけだ。

「安いよ安いよ」といって客引きをしてとにかく店に入れさせ、落ち着くまではホステスが2〜3人隣に座って話し込んだりして、そして客が飲み始めて良い気分になってきたら、ホステスも好きな酒をつぎつぎ頼んだり次の客の席にいっちゃったり。そんなキャッチバーと同じやり方ですね(こっちは最後にお金をしこたま払わされるけどw)。

ちなみにわが家のテレビ視聴は最近、NHKが過半を占めるようになっている。
コマーシャルそのものがなくてコンテンツに集中できるし、だからあの不快な“CMまたぎ”も、そのせいで起きる時間のムダもない。
快適そのものだ。それに番組の内容や質も良い。特にETV(昔の教育テレビ)の番組にチャレンジングで面白いものが多い。スポンサーの意向なんか気にしない、スカッとした番組作りが気持ちいい。

そんなNHKの快適視聴に慣れた家人にとって、ムダに長いコマーシャルやあからさまな“CMまたぎ”は不快そのものでしかなかったらしい。
「次からは録画して(コマーシャルを)飛ばして見るわ」と家人も上記コラム主同様、「アドブロック」宣言をしたのでした。

確かに、民放テレビの情報やコンテンツを取得しようと思ったら、コマーシャルもあわせて受容すべきなのは、これは情報の提供サイドとユーザーサイド間での暗黙のルールだった。これまでは。

ただ、そういうビジネスモデルは、そろそろ古くないか。時代遅れになってないか。
ユーザーはもはや受け身な存在ではなく、スマホやネットで自分が欲しい情報を主体的に取得できるようになっている。

いままでは
提供サイド > ユーザー、という図式だったけれど、これが
提供サイド = ユーザー、あるいは
提供サイド < ユーザー、といった地殻変動が起きつつあるように思う。

これまでは提供サイドに主導権があったが、「だったらオレはこっち見るからいいよ」とユーザーサイドの選択肢が広がっている。
相対的に、そこで消費される情報やコンテンツの価値も絶対ではなくなってきている。
コンテンツはもはや過当競争、民放のバラエティ番組なんか良い例だ。

そんな状況で、ユーザーにとって邪魔でしかないアドを差し込んだら、ただでさえ相対的に低下しているコンテンツの価値をさらに下げるだけだ。
ないしは、「それでも見たい」という気持ちを起こさせるコンテンツを提供サイドは制作するべきだと思うが、いまの提供サイドにそれができるほどの余裕があるんだろうか。これはテレビに限らず、ネットの業界でも同じだ。

上記コラム主は提供サイドの立場から、だからこそアドの再定義が必要だと訴えている。

僕はユーザーサイドの立場になって、こう思う。
いまの時代、タダはクズと同義だ。必要な情報は、金を払って自分のモノにしよう。
タダの民放番組より、有料のNHK番組の方が快適で良質なように。これはネットも同じだ。

同じようなことを以前もいろいろ書いていた。よっぽどフリーミアムがキライなんだな(笑)

無料→広告でマネタイズ、はもう限界でしょ。ウェルク事件で改めて思うこと。

「無料」は何も生まない。それどころか、世の中をどんどんつまらなくしている。

テレビに出ていいデブは、渡辺直美ちゃんだけだ

スーパーに入ったら、果物売り場にこのポスターがあったワケですよ。
もうビックリ! で、直美ちゃん似合ってる、カッコいい、と再度ビックリ。

家に帰ったらすぐ、ググりました。で、そのムービー。

もひとつ、最近のCM。

こんなふうに、インパクト強いキャラに化けられる。
メイクでも衣装でも、いじりがいがある。
さらにダンスさせると、もう絶品。CMとかPVに引っ張りダコなのも分かる。

スゴいなー、この人。
単なるデブじゃない、価値あるデブ。
こんなデブ、高木ブー以来じゃないか(笑)

インスタでも大人気。

いま、「デブ」がちょっとキているらしく、テレビのバラエティとかでもいっぱい出てるけど。直美ちゃんみたいにちゃんと芸のできるデブはいないな。

芸人バブルも盛りを過ぎ、面白いネタが振れたりする人は限られ、あとは見ためで行くかー、デブ出しとけばいいんじゃね? キてるしギャラ安いし、みたいなチョイスで出てる芸無しの単なるデブ女子が多すぎ。

まー、女性タレントは佐々木希さんとか菜々緒さんみたいな美人・フォトジェニック路線に一時期ガーッと振れていたけど、そろそろ飽きられたというかタレントも枯渇したので、こんどはカウンター的にデブ路線に振れてる、という感じもしたり。

そんなこんなで、あっちの番組であのデブが出てるからウチはこのデブで、っていう感じで連鎖してあっという間にどのチャンネルでも毎日出てくるようになった。まさにデブの横並び。

けど、見ている方はもはやウンザリ。
太ってるだけでコメント面白くないし、芸ができるわけでもなく、かえって画面が汚く見えて不快なので、最近はついチャンネルを変えてしまうように。

見てて面白くて、カッコ良くて、意外性もあったり、なんか凄いと思えるデブは、渡辺直美ちゃん以外にいない。
テレビに出ていいデブは、直美ちゃんだけだ。
けど、ほかの仕事が忙しいらしく、あんまりテレビには出てこないけど(笑)。

『すべての教育は「洗脳」である』の書評記事で思い出した、僕の洗脳体験

確か小学3年生か4年生のときの道徳の授業で、「アムンゼンとスコット」をやったことがあった。いまは「アムンセン」と清音らしいけど当時は「アムンゼン」、「ゼ」が濁音だった。

ふたりは人類初の南極到達を競った。ノルウェー人で冒険家のアムンゼンが、イギリス人で軍人のスコットを抑えて初到達の偉業を成し遂げる。

アムンゼンが南極到達という目標にターゲットを絞ってプロジェクト立案し遂行した(いま風に言うと)のに対して、スコットは軍人という公的な立場から南極の環境調査などを行いながら進行したため遅れた。しかも極地の環境に不慣れだったため、最終的には遭難し命を落とすこととなった。成功と挫折。栄光と死。

その道徳の授業では、ここまでの事前情報を生徒に軽くインプットしたあとで、どちらがいいと思いますか?と担任の先生から質問があった。

「アムンゼンがいいと思う人」に手を上げた生徒が大多数。なにしろ偉業を達成したし生きて帰ってきたのだから、大多数の生徒はこちらに手を上げるだろう。

それに対して僕は、スコットに手を上げた。先生と目が合い、理由を聞かれた。

南極の地質や気候といった彼の調査は、のちの自然科学の研究などで役立ったと授業でも説明がされていた。目的は果たせなかったけど命を賭けてまで当時は無駄かも知れないことに真面目に取り組んだのは凄いじゃないか。偉いじゃないか。

思ったことを素直に、正直に言った。

その後、両者についてさらに詳細な追加情報が先生からもたらされた。
いまとなっては細部は忘れてしまったけれど、確かアムンゼンがやったことが正解で、スコットの行動は間違い、という意識付けが行われたように思う。

そして授業のラスト、先生が僕にわざわざ目を合わせて聞いてきた。きみの考えを聞かせて欲しい、と。

これまでの授業の流れ、何かを僕に望むような先生の顔、そしてスコットで挙手した僕にわざわざ目を合わせてきたこと。
僕はそれらを一瞬のうちに頭の中にリストアップし、いまここで自分が言うべき答えをはじき出した。

「僕もアムンゼンが立派だと思います!」

あのときの先生の満足そうな顔と言ったら!!
独裁者が自分が望んでいた領地を侵略できたときのような、征服者のような笑み。

逆に僕はすごく、もやもやした。その後少し大きくなって、いろんなことばを覚えたとき、あの「もやもや」は、「洗脳された」という表現が当てはまると気付いた。

そう、僕は小学生の時、道徳の授業で、先生から洗脳されたのだ。

国語とか社会とか理科とか、毎日の授業で新しい知識をいつも楽しく教えてくれて、僕はとても大好きな先生だった。それなのに道徳の授業の時だけあんな教え方をするなんてと、大きなショックを受けた。
だからこそ、もう何十年も経ったのに鮮明に覚えている。あのときの先生の顔が、いまだに忘れられない。

・・・・・
そんな昔々、昭和時代の田舎の小学校で起きた「洗脳体験」を、この書評を読んで思い出した。
僕らはこんなふうに「洗脳」され「矯正」され、社会の歯車としてきちんと回るように仕立てられてきたんだなぁ、と。

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)作者: 堀江貴文出版社/メーカー: 光文社発売日: 2017/03/16メディア: 新書この商品を含むブログを見るKindle版もあります。すべての教育は「洗脳」である?21世紀の脱・学校論?

情報源: 【読書感想】すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (1/2)

“洗脳世代”の僕も、読んでみようと思う。

僕の311、渋谷駅、帰宅難民、iPhone、そしてSNS

今日は311、東日本大震災の日。

あのとき僕は渋谷にいた。
西口のバスターミナル、渋谷中央街を背に、JR渋谷駅に向かって立っていた。

並びはじめた当初はバスが来ていたが、徐々に新しいバスが来なくなっていた

電車は動いていない。渋谷駅にも、左側に見える地下鉄銀座線の渋谷駅にも電車の往来は見えない。
残る公共の交通手段はバスだけだ。僕が立っている前のバス停から自宅近くまでバスが運行しているはずだった。僕の前には数人しかおらず、次にバスが来れば確実に乗車できる。でも1時間ほど前に満員の乗客を乗せたバスが出たきり、次のバスは来る気配がなかった。

後から知ったが、このとき東京周辺の道路は上下線共に麻痺していてぴくりとも動いていなかったそうだ。
3月の寒空の下、すでに2時間くらいは並んでいただろうか。

そのとき、ちょっとした異変が目に映った。
目の前のJR渋谷駅の駅舎から京王井の頭線の入口に向けて走る人がいたのだ。それを追うように数人、パラパラと続く。人の数が次第に増えていく。

目を凝らして見ると、みんな若い。20〜30代くらい。
僕はピンと来てすぐにその人の流れに加わった。バスの順番も気になったが、なに、もう1時間以上も待っても来ないのだ。どうせギャンブルだったら、目の前の新しい流れに賭けてみようと思った。

渋谷駅の帰宅難民の様子。この目線の向こうを、パラパラと走る人が見えてきたのだ。

ピンと来たのは、走ってる人が皆若かったこと。それもTwitterのようなSNSをやっていそうな風体だったからだ。
ちょうどiPhoneの3Gが出始め。スマホ時代の幕開けのときだった。僕も機種変して持っていた。ここにある写真もそのiPhone 3Gで撮ったものだ。

それにともなってTwitterをはじめSNSが流行りはじめていた。mixi、なんてモノもあったな。
目の前で走っている若い人の流れは、そんなSNSで井の頭線の運転再開情報をキャッチした人が改札を目指しているのだと直感した。

はたして直感は当たり、井の頭線の運転再開後、2番めの列車に乗り込むことができ、その後はスムーズに自宅に帰り着くことができた。やれやれ。

311、あの日は自然災害の脅威とともに、SNSの威力や便利さを痛感した日でもあった。
たぶん、運転再開の情報を何らかのかたちで知った人が、それをSNSで発信、リプライやリツイートなどで一気に拡散し、それを知った人が井の頭線の改札に走ったのだと思う。
ニュースサイトは当時もあったが、あれほど正確でリアルタイムな情報提供はされていなかった。そのおかげで僕も帰宅難民にならずに家に帰ることができた。まさにSNSさまさま。
ぼくもせっかくiPhoneを持っていたのだから、やっていれば良かった。というのは後の祭り。

時は過ぎて去年、2016年に熊本の震災があった。
ツイッターやフェイスブックで避難や避難所の情報、支援物資のやり取りなどが効率的に行われた一方で、
動物園のライオンが逃げたなどというフェイク情報も多く流され、災害時の混乱に輪をかけた。ライオンのフェイク情報は、その後、発信元の男が逮捕されている。

2011年の311の時にはまだ普及しはじめで無条件に信じることができたSNSの情報も、
現在は爛熟し信憑性が大きく揺らぐようになった。

わずか5年の間に、SNSもその内容や質がずいぶん変わった。
価値ある情報の宝庫だったものが、とんでもないニセモノもたくさん混じるようになった。まさに玉石混淆。
ニセモノをつかまされたり、それに踊らされないように、情報リテラシーが必須になった。やれやれ、面倒くさいことだが。

通信の普及とその質の変化を、はからずも地震を通して実感した、ともいえそう。時代の変化、といえばそれまでだが。
そんなことを今日、311で思い出していた。

これはうちにももちろんある。

ライターの勝手Wiki:「いかがでしたか」 自称キュレーション/まとめサイトのクソフレーズ

「いかがでしたか」

キュレーション/まとめサイトなどと自称するページの記事で多用されたフレーズ。
記事の末尾、「まとめ」の項目で使われる。

(使用例)
■キュレーションサイトについて 記事の末尾、まとめの冒頭によく使われる。

いかがでしたか。
キュレーションサイトとひとくちにいっても、ライターがオリジナルの文章を起こして有益な情報を提供している優良なサイトから、他サイトからテキストや画像をパクり、ニセ情報を垂れ流している低品質で信用できないサイトまでさまざまです。
読むときは、その記事の内容や信憑性に十分に注意したいものですね。

[ 主な目的 ]
キュレーション等の記事では、その末尾に「まとめ」の項目を設置することがほぼデフォルトとなっている。なぜか? Googleが読者への有益な情報には「まとめ」があるべきと考えいる、とSEO業者が判断したことが大きな理由となっている。つまりSEO対策に必要なこととして「まとめ」の項目を設置することがSEO業者から強く推奨されている。同様の要素に、記事冒頭に内容のインデックスを置くことなどもある。キュレーションの記事作成用のプログラム(CMS)にそれら要素をあらかじめ実装している。

自称キュレーション/まとめサイトはグーグルのアドセンス広告料による収益をビジネスの基盤としており、アクセス数は収益に直結する。そのためSEO対策は最優先の課題となり、したがって「まとめ」を記事末尾に置くことが標準となった。

[ 使用の実際 ]
記事作成はコストダウンを目的にランサーズやクラウドワークスなどのクラウドソーシングにより行われていた。作成に従事する自称ライターは、経験やスキルが無く、また記事単価が1文字0.5円程度と異様に安いため、おもに他サイトからのコピー&ペーストにより記事と呼ばれるテキストの羅列が乱造されることとなった。

こうした作成過程の中で「まとめ」項目を設置する際の接続詞的なフレーズとして多用されたのが「いかがですか」である。多量のテキストを短時間で自称キュレーション運営サイドが求めるSEO対策フォーマットにあてはめるためのフレーズとして多用された。つまり、「いかがですか」は「まとめ」項目の書き出しに便利な言葉だったわけである。
また経験の無い自称ライターが他ページの記事を参考とした際、「まとめ」のデフォルト・フレーズとして誤認し盲目的に使用してしまった可能性も考えられる。

[ グーグルの対応 ]
2017年2月3日、グーグルは検索アルゴリズムのアップデートを発表した。

Google ウェブマスター向け公式ブログ
『日本語検索の品質向上にむけて』

(内容抜粋)
今回のアップデートにより、ユーザーに有用で信頼できる情報を提供することよりも、検索結果のより上位に自ページを表示させることに主眼を置く、品質の低いサイトの順位が下がります。その結果、オリジナルで有用なコンテンツを持つ高品質なサイトが、より上位に表示されるようになります。

DeNA 「ウェルク」問題に端を発し、さらに今回のグーグルのアップデートにより、自称キュレーション/まとめサイトはそのページビューとともに存在価値を大幅に下げると容易に予想される。従って、この「いかがでしたか」のフレーズも出現率も大幅に低下すると見込まれる。

朝ドラ「ぺっぴんさん」ミスチルのテーマ曲、詩にツッコミを入れてみる

どんなことを唄いたいのか、意味が分からないんだ、始まってから2か月以上たったいまでも。

NHKの朝ドラ「べっぴんさん」をだいたい毎朝見てる。
で、必然的にオープニング曲もだいたい毎朝聴くことになるんだけど、
何度聴いても分からないんだ、これが。

その唄は、こんな感じで始まる。

雨上がりの空に七色の虹がかかる
ってそんなに単純じゃない
この夢想家でもそれぐらい分かってる

※ミスターチルドレン「ヒカリノアトリエ」より
詩は私の聞き取りとNHK番組のテロップより(以下同じ)

 ↓
———-
虹が出たからって、ハッピーになれるわけじゃないよ。
そんなことぐらい分かってるさ、
———-
って意味でしょうか。
この人は、ちょっとネガになってる感じですかね。

で、中盤はこういう気分でしの内容が進んでいる感じかと。
———-
どうも心がじめじめしちゃいがちだから、
カラッとした気分になれるように頑張ってみたり、

でも下ばっかり見てたらいいことも見逃したりして
何にも変わらないよね、
———-

そしてラスト、
オープニングの映像でヒロインの坂根さんがスキップし始めるところですが、

さあ 空にかかる虹を今日も信じ 歩き続けよう
優しすぎる嘘で涙を拭いたら
虹はもうそこにある
きっと虹はもうここにある

って、おい!
出だしで虹をディスってたんじゃなかったっけ!?
“単純じゃない”って言ってなかった?

こんなに単純に虹を信じちゃうの??
ものすごいどんでん返し、なんだかついて行けない。

“優しすぎる嘘”っていうのは、
思いやりとか励まし、のことかと。他の人のそういう気持ちに触れて、
ネガな気分の心もなんだかほどけて
「頑張ろう」って思えるようになった、そんな感じか。

ポジティブソング、応援ソングの王道を行くような詩の展開ですね。
ここに刺さる人は結構いそう。

だからといって、そんな単純に虹を信じちゃっていいの?
そんなカンタンに信じちゃったら、悪い人に欺されない?
オジサンはちょっと違うと思うけどね。

要は、詩の意味が一貫してないの。
最初と最後で言ってることが180度、まったく違うから、
毎回、おいおい、って突っ込みたくなる。
毎回、ということは、毎朝。毎朝おいおい。

せめて、オープニングとエンディングの間に
そのどんでん返しのいきさつが分かるような、ブリッジになるような詩があれば
もうちょっと気持ちにスッと入るようになると思うんだけど。

「太陽の防腐剤」がそのキーワードになるかな、と思うんだけど、
それ以上のことは読み取れないなぁ。

おんなじ分かんない詩でも、例えばスピッツの「ロビンソン」なんか、
ぶっ飛びすぎてるから分からなくても許せてしまう。
だって、宇宙に風が吹いちゃうんだよ。もう好きにして、って感じ。
完全完璧、独自世界。草野くん、唯我独尊。

でもなぁ、この中途半端に分からない詩は、
僕には聴いてて居心地が悪い。

この他にも「ってそんなに」「夢想家」「太陽の防腐剤」とか、
コトバのチョイスでも“桜井ワールド”が炸裂しているようだけど、
単に詩の聞き取りを難しくしてるだけのような気がしないでもない。

いつだったか、エンディングでもわざわざこの曲をかけたときがあって、
(映像の尺が余ったのか、聞き取れないってクレームがあったのか?)
そのとき詩のテロップも画面に流れて
それでようやく「あ、そういう歌詞だったのね」ってやっと納得できた。

それと。
「夢想家」は意味から考えると「楽天家」の方が通じやすいと思うけど、
そうなると上手く曲に乗らないんだろうな。
でも僕の身近に、夢想家はあんまりいないけどなぁ。

あ、ただ
曲のエンディングはイイ感じ。

詩も演奏もバシャッと終わる。文章で言うところの体言止め。
曲の余韻を残しつつ、でもドラマの映像の世界にスッと入っていける。
そこら辺は計算されているなぁ、と思ってる。毎朝ね。

これを買えばテーマ曲の歌詞も書いてあるんだろうか?

ウェルクなどDeNAパレット各サイトのSimilarWebキャプチャを載せてみた。キュレーションサイト(笑)の墓標?

これ、念のためと思って取っておいたのを忘れてました。
ウェルクやメリーなど、DeNAパレット各サイトのSimilarWebの画面キャプチャです。

◎キャプチャは11月29日14時くらい。ウェルクが公開停止したのがこの日の21時でしたから、ギリギリセーフ、だったわけですね。
◎ウェルクを取るなら、DeNAパレット全体もと、同日、全部キャプチャしました。ですのですべて同日・ほぼ同時刻の採取です。
◎ただ、バタバタとキャプチャしたため、画像が乱れている部分があります。御容赦ください。

■ちなみに、これはSimilarWebの冒頭に出てくるグラフ、ウェルクのものです。
キレイな右肩上がり、5か月で約3.5倍の驚異的な伸び!! これに目がくらんでゼニの亡者になってパクリ街道をまっしぐら、という感じなのでしょうか。

■また、今年の6月にグラフの折れ線が急になるサイトが多くあります。
このプールなんかは代表例。このあたりで“技術”が確立され、各サイトに広がったのでしょうか。

■以下、DeNAパレット、各サイトとキャプチャ時のアクセス数です。
サイト名をクリックすると、そのキャプチャが表示されます。メッチャ長い、フンドシのような画像なので覚悟してください。

WELQ 72.20
MERY 29.20
FIND-TRAVEL 22.50
JOOY 21.40
IEMO 17.50
CAFY 13.10
UPIN 7.20
CUTA 6.10
PUUL 3.70
GOIN 3.10
※アクセス数の単位はMILLION

仕事場の27インチのiMacの画面にキャプチャ画像を表示しているんですが、こうして見るとキュレーションサイト(笑)の墓標が並んでるみたいです。

今回の騒動で、つい買ってしまいました。

Googleのためにコンテンツ作ってるわけじゃない〜ウェルク閉鎖で思うこと

ウェルク炎上が暴いた劣悪メディアの仕掛け なぜニセ情報が大量の読者を獲得したのか

情報源: ウェルク炎上が暴いた劣悪メディアの仕掛け | メディア業界 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

“ココロとカラダの教科書”をうたったエセ医療情報サイト「ウェルク」が閉鎖になった。
私も仕事で医療コンテンツの制作をしてるので、いい加減な方法でいい加減に作られたサイトが閉鎖されたことに関して、スッキリとしている。

ウェルクはモバゲーなどで有名な一部上場企業、DeNAの運営。
ランサーズなどのクラウドソーシングを利用して“ライター”と称する人たちにハイパーローコストで「記事」と呼ぶテキストの塊を制作させる。「記事」には、事実よりもGoogleの検索エンジンが好むようなキーワードを羅列することが優先され、それを大量にばらまくことでトラフィックを稼ぎ、広告媒体としての価値を高め、マネタイズする。というビジネスモデルだった。

こう書くと、DeNAは単に金儲けのためだけにこのサイトを運営してきた、というのがよく分かる。
読者に対し、その興味に応えたり、悩みや課題を解決に導くための情報(しかも正確な情報)を提供する、ということがメディア本来の「価値」であるはず。それなのに今回の場合は、単に広告媒体としての価値が最優先され、そのために「記事」は読者よりもGoogleの検索エンジンをターゲットとして書かれていたわけだ。
Googleのサーチエンジン・オリエンテッドなテキスト作成、とでもいうか。

僕がムカついていたのは、この点ですね。
僕は仕事でテキストを起こしたりコンテンツを制作しているけれど、Googleばかり相手にしてるわけじゃない。その向こうにいる読者のためになったり、少しでも楽しい気分になって欲しいからやっているわけで。
それなのに、「見出しは○○文字以内で」とか「最後に必ずまとめを書いてください」とか、そのコンテンツには場違いな要求をしてくる訳知り顔の人が、ことのところものすごく増えた。この前なんて「僕はGoogleのために文章書いてるわけじゃないですから」って、発注先の人と揉めたりしたことも。

もちろん、SEO対策の必要性や検索上位になる価値も分かっているつもり。でも、そのことがコンテンツ制作の目標になっていないか。情報の正確性や読者への影響力よりも重要視され、「メディア」としての役割やスタイルがだんだん歪められてきていないか。ウェルクは、その最たる例だ。

メディアって何だっけ? 僕らは何のためにコンテンツを作るんだっけ?
ウェルクの一件が、みんなで考え直すきっかけになればと思う。

僕は、Googleのためにコンテンツ作ってるわけじゃないからね。

「創る」という行為は、理論なんかじゃなくある意味「狂気」だと思う。それがよく分かる作品

ウェルクの「監修」は進まないと思う理由、医療コンテンツの制作実体験から

2016年11月24日に、公開されている記事について、医師や薬剤師などの専門家に対し、医学的知見からの監修の依頼を開始いたしました。

【お知らせ】「専門家による記事確認」および「記事内容に関する通報フォームの設置」について

いま大炎上中のウェルクですが、上のリリースで言うとおりには進まないだろうな。医療関係のコンテンツ作成の経験から直観的にそう思いましたね。その理由を次に列挙します。

医師は「エビデンス」を大前提とするので

ここで言うエビデンスは、例えば医学の教科書に載っているような知識や治療法や、医師の学会の統一見解とか、承認されている学術論文など。それらの情報をもとに医師は診療を行うわけです。インタビューなどでの発言や依頼原稿を作成する場合でも同じ。
これまで何度も医師のインタビュー取材をしているけど、医師は必ずテーマに関する論文や資料を持ってきていて、それを確認しながら話します。取材後、原稿をチェックしてもらうと関連する学術論文とかも改めて確認して「やっぱりこう書いて欲しい」と指示がきたり、微妙な言い回しも含めて「一言一句この通りにしてほしい」と言われたりすることもよくあること。
なので、“と言われています”“ということをよく聞きます”なんて責任逃れの伝聞調が多いウェルクの記事を医師が読んだら、「そのエビデンス持ってきて」「無いなら書き替えて」っていうことになりますね。きっと。

「監修」って、実は凄く重い作業って知ってた?

監修という作業は、実績あるプロが責任持って「大丈夫」ってハンコを押すということ。監修者の名前が出るし、無責任なことはできない。本人への取材原稿でさえ医師はあれだけ神経を使うのに、素人がネットからパクって作った文章なんかプロの医師がハンコ押すはずがない。DeNAのリリースには簡単に書いてあるけど、実際やってみると大変だよ。

注目されやすい病気や治療法ほど、監修できない可能性大

がんの新しい治療法みたいに注目されやすい情報はアクセスを稼ぎやすいので、ウェルクにたくさん掲載されていると思う。でもそういう情報ほどエビデンスが不足しており、はっきり書けないことが多い。一方でコレという医師がいると、そうじゃないと反論する医師も出てくる。監修する医師にもよほどの知見がないとできない。なので、監修という作業自体、手を付けられない可能性が大いにある。

監修できる医師を揃えられないでしょ

何でもウェルクには1000単位で記事が上がっているそう。テーマとなっている病気は治療法などもかなり細分化され多岐にわたっていることが予想されます。監修ができるほど実力ある医師になると、自分の専門分野以外は絶対に口をはさまないから、極端な話、ウェルクで扱っている病気の数だけ監修する医師が必要になってくる。
じゃ、ある程度幅広い知識を持っている権威を連れてくればいいんじゃない、というアイデアも出てきそうだけど、そんな人は一部の大学教授レベル。そういう人は普通忙しいし、学会やらの関係とかもあっておいそれと外に出てきたりはしない。Webのエセ情報サイトなんかでは絶対に動かない。

プロが試しに“監修”に近い作業をしたらものすごい時間がかかった、っていう記事が載ってましたね。仮に記事1本の監修に2万円払ったとして、1,000記事だと2千万!?
ファッションやコスメなどでやってきた、キュレーションという名のパクリ行為を医療分野に“ヨコ展開”しただけなのだろうけど、やり過ぎちゃったよね。DeNA自体のブランドイメージの毀損も含めると、ダメージは大きそうだ。

※2016/11/29現在、ウェルクのサイトは問題となりそうな医療関係の記事が一切閲覧できない状況になっています。ただ、Googleで「だるい」とか検索すると相変わらずの状況ですが。

※2016/11/30追記、ウェルクはついに全面閉鎖になりました。昨日の夜のことでした。
http://toyokeizai.net/articles/-/147045

■ウェルク問題はこの記事を読むとよく分かる(と思う)
DeNAがやってるウェルク(Welq)っていうのが企業としてやってはいけない一線を完全に越えてる件(第1回)
【告発も追記】やってはいけない一線を越えたDeNAのウェルク(Welq)をとりあえず直ちに閉鎖すべき理由(シリーズ第2回)

そもそも「キュレーション」って、れっきとした能力だったはず。それが今回の騒動で「=パクリ」という認識が広がってしまった気がする。