日本人とコンセプト:やったことないので、分からない。その例?

まえの続き。
コンセプチュアルなやり方は、やったことがない人にとっては理解できない。その実例として。
昔、カーナビの開発関連の作業でのこと。
発注側の開発部長はこう言いました。
・検索のインデックスを作ってほしい
・地図データが揃ってないエリアがあるけど、そこはブランクでかまわない
・データが揃い次第、追加していく
それに対して受注側の開発者は、
・インデックスが追加されることもあるので、データが揃わないと着手できない
との一点張り。打ち合わせは平行線のまま。ま、開発ツールの制約とかもあるので、ぴったり当てはまる例とはいえないかもしれないけど。
ただ、この直後ぐらいから「オブジェクト指向」というコンセプチュアルっぽい開発手法も出てきましたが。
部長側は、コンセプチュアルな手法でやってほしい、といってるのに対し、
開発側は、積み上げる方法でしかできない、ということかと。
川上から降りるか、川下から上がっていくか。
どっちにしろ、同じ場所に辿り着こうとしているんですけどね。
ただ、合議制の場合は「みんなの意見」という不確定要素が往々にしてあるので、
「着いてみたら別の場所だった」ということがあるような。
そんな例は、また次のエントリで。
※画像はhttp://www.flickr.com/photos/e3000/8498378262/in/photostream/より

日本人とコンセプト:やったことないので、分からない。

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スティーブジョブズのようなアイデアと実行力で、現状の打破を!なんて。
少し前、スティーブジョブズ待望論が日本で起こってました。

目標設定、
実現へのアプローチ、
決断力、
そして実行力、などなど、
これからのモノづくりが見習うべき要素がいっぱい! みたいなことを言う評論家の先生とかをよく見たんですけどね。一時期。
でもね、無理ですよ。日本の企業で。
起業したばかりとか中小企業だったらいざ知らず。
ジョブズは、コンセプチュアルなやり方だった。
最初に目標、到達点ありき。しかも、とても具体的に緻密にプランニングされていた、と聞きます。Appleの社員は、言ってみればジョブズのプランを実現するために働いた、ともいえる。
で、一切の妥協を排して目標の実現をめざした。それができない場合は、例え発表間近であってもやり直させたり。iPhoneも、そういう製造手法でできた商品。
でも、そんなやり方、日本人は教わったことがない。体験したことがない。だから、できない。と思う。
だって、
学校では、学級委員会で多数決。
会社に入ったら、上司を含めて合議制。
みんなで意見を出し合って、みんなで納得しないと進まない手法。
ちょっとでも強引な人がいると、「ワンマン」とか言っちゃって排除しようとしてません?
最近は「リーダー育成」を掲げる学校もあるようだけど。どんなやり方やってるんでしょう?
こうした流れがあるせいか、日本の会社はおおむね合議制で仕事を進めていきます。
で、たまに上長や社長から「ツルの一声」があったり、それが多いと「ワンマン」と下の社員から烙印を押されたり。最近は「ブラック」という称号?も。
そんな職場も長く続けていると、「しきたり」「慣行」ができて、それらをもとに「場の空気」が醸成されて。それに染まらないと、「変わり者」とか言われたり。
そういう中に、スティーブジョブズが来て、彼の流儀で仕事を進めたって・・・結果は、火を見るより明らかなんじゃないですか。
※画像はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/スティーブ・ジョブズ より

政策って、あった?

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景気をよくするとか、そのために命をかけて頑張るとか、原発止めるとか続けるとか、子どもたちを戦争にやらないとか、とか、とか。
政策というより、お題目ばっかり聞かされていたような気がする。
ちなみに「題目」とは、
  1. 書物や作品などの標題。
  2. 討議や研究などで、問題として取りあげる事柄。
  3. 日蓮宗で唱える「南無妙法蓮華経」の7字。
  4. (多く「お題目」の形で)口先だけで、実質のともなわないこと。「お―ばかり並べる」
 
僕としては「2」を期待したいんだけど、どう考えても「4」にしか当てはまらないような、、、
アベノミクスを批判するのは良いけど代案がない、とか、
原発止めるんだったらエネルギー予測とそれに基づくコスト計算=将来像はどうなる?
TPP離脱するんだったら日本の農業や生活の将来像をどう描くのか、
集団的自衛権を否定するなら日本はどんな立ち位置を取るのか、
とかとかとか、いっこうに説明ないまま。
共産党は「原発を止めてもやっていけてるじゃないか」といってたけど、CO2の問題や、貿易赤字の件は言及なし。
パッと見ただけでも、実現の可能性や方法論が詰められてないし、それより何より、将来像がぜんぜん見えない。
要は、コンセプトがまったく感じられない。
あるのは、現実=政治だったら自民党の政策に対する文句、単なる反論、あるいは罵詈雑言。
文字通り「建設的」な提言、ないしは未来像を提示してくれるところは、ほぼナシでしたね。
次世代の党が、日本の進む先を示唆していたように思えるのと、
維新の党が、現状打破のための道筋を示していたのが、記憶に残ってるくらいかな。
基本的な方向性を打ち出し、それに基づいて施策を発信する。
そんな、コンセプトに基づいた戦略とか戦術を展開している政党は見当たらない感じですね。
そもそも、日本人ってコンセプトに基づく展開って、苦手。というか、やったことないので分からないんだと思う。
それはなぜ?というのは長くなるので、次回以降に。
※画像はhttps://www.facebook.com/ld.blogos/photos/a.360931943932918.106088.161962970496484/1026486657377440/?type=1&theaterより

あの、朝日新聞が・・・

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どこがやってるの? と思って調べたら“あの” 朝日新聞でした。
サイトの中をよーく見に行かないと企業名が書いてないのは、昨今の風潮に気兼ねしたの? なんてイジワル気分にもなってしまうけど。
ニュースを掲載するだけでなく、記事に対して読者からの疑問や要望を受け付け、朝日新聞の記者がさらに取材をし、記事を加筆したりする、という新スタイル。SNSの双方向+マスコミの取材力、みたいな?
例えば、、、
10月6日に寄せられた読者からの質問に答えて、10月17日に下記の時事が出ている。
【お答えします】エボラ出血熱、日本で発生したらどうなる?
その他、関連情報や朝日新聞記事のリンクなども掲載され、読者の「もっと知りたい」というニーズに応えられるようになっている。
新聞記者が取材してきた、というのは、ポイント高いと思う。ヤフー知恵袋なんかよりは信頼できるし。こういうことは、まさに新聞社しかできないことだよね。
ふむふむ。
Topにある記事を見ても、面白そうなトピックが並んでる。TwitterなどSNSの情報をもとに起こした記事もあるけど、いま評判の悪いバズサイトのように内容やリンク先のコピペではなく、記者による記事内容の検証などもあわせて掲載され、より信頼性を高めよう=ニュースの価値を高めようともしている。
ゴミの山のような「ネット情報」の中から、これは、と思えるものを見つけてきて、ホコリをはたいたり、きれいにしたりして「見れる」「読める」ようにするには、リソースや情報、パワーのあるマスコミの得意技なわけで。
なるほど。
やればできるじゃん! 朝日新聞!!
(でもいまとってる新聞は、来月満期なので解約しちゃうけど)
※画像はhttp://withnews.jp/aboutより

俺たちのユキヒコ!

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「さ・と・お! さ・と・お!」
味スタに、コールがこだましました。あれは、2005年あたり、清水戦だったか。
コールの対象は、佐藤由紀彦。
2002年までFC東京に、その後、横浜Fマリノスや清水エスパルス、柏レイソルなどを渡り歩いたMFの選手。
僕が東京のゲームを見始めた頃、彼は右サイドに君臨していた。エンドラインぎりぎりから挙げる彼のシャープなセンタリング、そのボールの軌跡、そこから生まれるゴール、歓喜!
「ユキヒコ、ユキヒコ、俺たちの〜♪」
ゴール裏でよく唄われていたチャントは、いまも耳に残ってる。
そのユキヒコも、注目株だった石川直宏選手に追われるようにして東京を後にしたのが2003年。
アウェーチームの選手として、東京のホーム、味スタに戻ってきた。
そこで東京のゴール裏から起ったのが冒頭のチャントだったわけ。
あのとき、佐藤選手はボールをロストしてタッチラインを割ってしまった。ちょっと情けないプレー。それに対してわき起こったチャントだった。
そのミスを揶揄したのか、俺たちの元アイドルを叱咤劇励したのか。僕は後者だと思ったけど。
もはや「ユキヒコ」ではない。
敵チームの「佐藤選手」である。
だけど、自分たちにとっては忘れられない選手。
そんなジレンマというか切ない気持ちが、「さ・と・お」のチャントにこもっていたように思えた。
東京のゴール裏は、口は悪いけど、愛情は深い。
J2の長崎で選手を続けているのは知っていたけど、どうしているのか、気になって調べてみたら、ことし引退を決意した、とあった。
ブログにもエントリが載っていた。
おつかれさま。
あのセンタリングの軌道は、いまでも憶えているよ。
そして、フットボールは続く。
※画像はhttp://blog.jplayers.jp/sato/より

そこは、入ってくるところじゃない。

「それは余計なお世話だよ」
思わず、ちょっと声を荒げてしまった。
昨夜のこと、友人から電話があって。
ひとしきり、くだらない話のあと、子育てにかかるお金の話に。
あいにく、その友人には子どもがいない。欲しかったけどできなかったのか、自分たちの意思で作らなかったのかは知らない。僕が感知することではないし。あいつから話してくれば、聞いたかもしれないけど、話してこないし。
誰しも、立ち入って欲しくない部分があると思う。いくら長いつきあいでも。
そういうところは、とくに関わらないようにしたいと思ってる。気を回しすぎかもしれないけど、僕がそうしてほしくないから、他の人にもしないだけだ。
だけど、どういうわけか、昨夜の彼はその“一線”を越えてきちゃったんだな。
子育てにはカネがかかるだろう、それも二人もいるとなるとなおさらだよね、僕の友だちにもいまヒーヒー言ってるのがいるんだけどさ、いますごいかかるんだよね?
途中から、黙って聞いていられなくなった。
経験ないのに、知ったクチきくなよな。お前には別にそんなことどうだって良いことじゃないか。そこは俺が触れてほしくないところ。例えお前でも、訳知り顔で首を突っ込んで欲しくないな。
帰宅して一段落、さあこれからビールでも飲もう、というときだったせいもあって、イライラもボリウムアップ!
そう。ワイドショーとか見ていても思うんだけど、イラッとくるのが、訳知り顔で首を突っ込んでくるリポーターたち。そして偉そうな顔して毒にも薬にもならないことをいうコメンテーターという役の人。あれと同質な感触を、電話の友人にも感じてしまったんだな。
そんな話したって、共感も感動も、なんにも生まれない。
それどころか、当事者にとっては迷惑だったり、苦痛を感じたりするだけ。
「切るよ」と言って電話を置いて、ビールを一杯。少し落ち着いた後、
「俺って、そういうコピー書いてないよな」なんて、自分の仕事を思い出したりした。

心の境界線。

「それは余計なお世話だよ」
思わず、ちょっと声を荒げてしまった。
昨夜のこと、友人から電話があって。
ひとしきり、くだらない話のあと、子育てにかかるお金の話に。
あいにく、その友人には子どもがいない。欲しかったけどできなかったのか、自分たちの意思で作らなかったのかは知らない。僕が感知することではないし。あいつから話してくれば、聞いたかもしれないけど、話してこないし。
誰しも、立ち入って欲しくない部分があると思う。いくら長いつきあいでも。
そういうところは、とくに関わらないようにしたいと思ってる。気を回しすぎかもしれないけど、僕がそうしてほしくないから、他の人にもしないだけだ。
だけど、どういうわけか、昨夜の彼はその“一線”を越えてきちゃったんだな。
子育てにはカネがかかるだろう、それも二人もいるとなるとなおさらだよね、僕の友だちにもいまヒーヒー言ってるのがいるんだけどさ、いますごいかかるんだよね?
途中から、黙って聞いていられなくなった。
経験ないのに、知ったクチきくなよな。お前には別にそんなことどうだって良いことじゃないか。そこは俺が触れてほしくないところ。例えお前でも、訳知り顔で首を突っ込んで欲しくないな。
帰宅して一段落、さあこれからビールでも飲もう、というときだったせいもあって、イライラもボリウムアップ!
そう。ワイドショーとか見ていても思うんだけど、イラッとくるのが、訳知り顔で首を突っ込んでくるリポーターたち。そして偉そうな顔して毒にも薬にもならないことをいうコメンテーターという役の人。あれと同質な感触を、電話の友人にも感じてしまったんだな。
そんな話したって、共感も感動も、なんにも生まれない。
それどころか、当事者にとっては迷惑だったり、苦痛を感じたりするだけ。
「切るよ」と言って電話を置いて、ビールを一杯。少し落ち着いた後、
「俺って、そういうコピー書いてないよな」なんて、自分の仕事を思い出したりした。

2種類のウェブデザイナー

ウェブデザイナーって、2種類いると思う。
いままで広告やカタログのデザインをしていたグラフィックデザイナーが、ウェブやコーディングに関する勉強をしてやる場合。
もうひとつは、それまでコンピュータ・ソフトウェアの開発に携わっていたエンジニアが、Webページの制作も行なうようになったパターン。
グラフィックデザインという方面からやってきた人たちと、
システム開発という分野からやってきた人たちが、
ウェブデザインという世界でガッチャンコしてる、というイメージ。
なので、両者はやり方がまるで違う。
グラフィック系は、まず、やりたいことありき。
ビジュアルとかの素材、それを見せたり動かしたりするアイデアがまずあって、それをコーディングのときに何とか組み立てていく。そんな感じが多い気がする。
なので、ソースが複雑になりがちで、表示やメンテナンスに時間がかかることがあったり。
システム系は、まず、コーディングありき。
各ページをどのようにルールに則ってコーディングし、スマートでハンドリングしやすいソースに仕上げていくか、そういうことを考えて進めている人が多いような。
仕上がったページは、確かにウェブページなんだけど、レイアウトや面白さでは物足りないなぁ・・・ということも。
そんなわけで、グラフィック系のウェブデザイナーには、広告キャンペーンみたいに、「面白いじゃん、これ」と思わせるようなページを作ってもらうとイイ感じ。
システム系の人には、サービスサイトのように、大量の情報も見つけやすく、しかもあとあと更新や編集しやすいサイト構築などでチカラを発揮するように思う。
この世界も、やっぱり適材適所。

鹿が増えてるってー?

土曜日は、恒例の「忘年ハイク」。
ハイクとかトレッキングとか、最近の流行りに聞こえるけど、どっちかというと、酒とかつまみをしこたま背負って山に登って、頂上で消費してくるおっさんたちの会、というのが正解。
参加者もだんだんトシとって高い山に登るのが難儀になってきた(だったら背負っていく酒とか料理を減らせば良いんだが:笑)という理由と、「火山活動の激しそうな山は禁止」というメンバー各自の家人の厳命から、鎌倉にある大平山という建長寺の裏庭的な山へ。こんなところにも、御嶽山の影響が。
で、そのメインディッシュ、去年は牛肉のビール煮が、ウマーでした。
そして今年は、シカー!?
メンバーの一人が「猟師」を始めたのがきっかけで、鹿肉のワイン煮が今年のメインディッシュに。ジビエといえば聞こえは良いけど、、、
鹿は、先日のエントリでも書いたとおり、山里でも珍しくない動物。とくに猟師を始めたそのメンバーがよく行く奈良では、鹿が増えすぎて困っている。
そこらじゅうの樹木の皮を食べ尽くしてしまうので、樹が弱り枯れて、山全体に悪影響をおよぼしているんだそうだ。もちろん、畑の作物を食べ荒らしてしまうし。
保護が進んだ → けど、増えすぎてしまった → だけど駆除する方向に戻れない
というところで行政がウロウロしている間にどんどん増えてしまっている、そんな感じらしい。
これまで、昼間しか猟銃は使用できなかった(知らなかった)のが、夜間でも許可されるらしいけど、焼け石に水だろう、と。
「一度、方向が決まったら、なかなか修正が効かないよなぁ、日本って」
「そうそう、鹿を殺したらかわいそう、っていうひとが多いけど」
「でも、村の人は困っとるで、実際」
「別に、村の人が増やしたくて増えたわけじゃないんでしょ?」
などとみんなで話しながら、鹿肉をいただきました。
獲ってきた彼は「これで成仏させられた」と言ってました。
味というか、噛みしめた感じは、ちょっとぼそぼそだった。

エネルギー問題を考えることは、僕らの未来を考えることなんだよ。わかってる?

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菅直人の選挙カーとすれ違った。僕が住んでる選挙区に立候補しているので。
今回の選挙の争点として、原発を挙げる候補者や政党も多い。菅さんもその一人。
だけど、納得いくことを言ってる候補者や政党は、どこにも見当たらない。残念ながら。
そもそも、原発の問題を考えるということは、僕らの未来の暮らしぶりを考えることじゃないのか?
だってそうでしょ。原発=エネルギーは、僕らの毎日の暮らしやビジネスに直結してる。
原発を使わない = 限られたエネルギーでこぢんまり、清貧に生きるという選択肢を選ぶということだ。エネルギーや資源をばんばん使う工業的な活動は避けて、必要なものだけをこしらえて、ムダなものは出さないようにしないといけなくなる。
というか、水力発電や発電効率の悪い再生可能エネルギーだけでやっていこうとするなら、生産コストがやたら高くなるので機械や化学などの工業生産事業は日本では成立しなくなる。これまでカネ(外貨)を稼いできた「仕事」ができなくなるわけだから、当然、貧しくなる。その貧しい中でも帳尻を合わせていかざるを得なくなる。原発反対を唱える候補者や政党は、そこまで視野に入れて言ってるのか?
「天空の城ラピュタ」に出てくる、ゴンドアの谷の人みたいに生きていくんだとしたら、それはそれで悪くないとは思うけど(けっこう本気)。
逆に原発を活かすんだったら、今後も前と同じように「成長する国家」を目指すという選択になる。だったら、次の成長戦略を描かないと。だけど、推進派の言い分を聞く限り、そこまで踏み込んで考える候補者や政党は見当たらない。みんな「これまでそうやってきたんだから、同じようにこれからもやりたい」っていうふうにしか聞こえない。
原発も使わずに成長を目指す、というやり方もあるだろうけど。いま、何とかその状態でやってるわけだし。
だけど、原発分のリカバーで火力の発電量を増やさざるを得ない → CO2出しまくり & 原油購入で赤字垂れ流しの現状をどうする?
エネルギー問題を考えることは、僕らの未来を考えることだ。
原発をやめるにしても、動かすにしても、そうじゃないにしても、この際だからこの国の未来の戦略を描き直して、その上で決めることじゃないのか。
311で原発の問題に気付いたからこそ、みんなで話し合ういいチャンスじゃないか、と思ってたんだ。
それなのに、羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くじゃないけど、「原発いらない」「子どもたちに豊かな日本を」とか、感情が先走ったような短絡な訴えばかり。推進派はこれまで通り「なし崩し」でやろうとしているし。やれやれだ。
戦後レジームが終わり、グローバル化とか、途上国の台頭とか、ITやネットなどテクノロジーの発達とか、日本だったら人口年齢の構造変化とか、いろいろガラッと変わってるわけで。そんな中、今まで通りの気分やロジックで問題解決を目指しても、何にも進まないよ。きっと。
必要なのは、「次はこうする」っていう僕たち自身の目標設定と、そのための戦略立案だよ。それを基軸にして問題を整理していくしかない。
エネルギー(原発)問題に限らず、TPPとか、集団的自衛権とかも、同じことだと思うんだけどな。