タダは、クズと同じ。必要な情報は、お金を払って取得する時代だ。

情報がタダの時代、フリーミアムの時代は終わった。と僕は思う。

だって、タダの情報はくだらない。このあいだのウェルク事件が良い例だ。タダ情報は、広告の提灯持ちでしかない。

ワンちゃん猫ちゃんとかの癒やし系画像のオンパレードにも、そろそろ飽きた。あれも使い回しの既視コンテンツが多くなってきた。そうそう“新鮮”なコンテンツは出てこないんだろうし、出てきたとしても著作権の関係でおいそれとパクって引用してこれなくなったんだろう。

たまに良質な情報があったとしても、広告がウザい。最近はムービー広告をオーバーレイで噛ませるコンテンツもあり、表示に時間がかかったりして、ほしい情報にありつくためのハードルというか僕のストレスがどんどん高まっている。
そのくせ、そのイライラをこらえて見た情報は、どこかで読んだ話だったり、どうでもいい無難な主張に終始していたり。
脱力感だけが残る。

そんな中、ちょっと古いけど、こんな記事が目に止まった。ギョーカイの人もやっぱりそうなんだ、と妙に納得。
 

 

「アドブロック」の世界的な広まりは、広告収入を損なうパブリッシャーの大反発を買っている。だが、クリエイティブ・エージェンシーの重役である著者は、バナー広告がユーザー体験を損ねてきたとし、広告のあり方を考え直すときだと訴えている。

情報源: 広告業界人だけど「アドブロック」を使ってみた結果:「ユーザー体験が劇的に向上して驚いた」 | DIGIDAY[日本版]

 

 

先日、家人が民放テレビのドラマを見ていてブツブツと文句を言い始めた。
ドラマの内容ではなく、コマーシャルの多さだ。最近のドラマは始まってから30分くらいたつとコマーシャルが分厚く流される。ちょうどその時間にさしかかっていて、3分以上たってもコマーシャルが流され続けていた。

9時きっかりとか正時の番組替わりの時間帯は、チャンネルを回されるのを防ぐためにコマーシャルを抑えコンテンツの見どころをギュッと流す。その反動で、番組の中ほどの時間帯になるとコマーシャルがどっと流されるわけだ。

「安いよ安いよ」といって客引きをしてとにかく店に入れさせ、落ち着くまではホステスが2〜3人隣に座って話し込んだりして、そして客が飲み始めて良い気分になってきたら、ホステスも好きな酒をつぎつぎ頼んだり次の客の席にいっちゃったり。そんなキャッチバーと同じやり方ですね(こっちは最後にお金をしこたま払わされるけどw)。

ちなみにわが家のテレビ視聴は最近、NHKが過半を占めるようになっている。
コマーシャルそのものがなくてコンテンツに集中できるし、だからあの不快な“CMまたぎ”も、そのせいで起きる時間のムダもない。
快適そのものだ。それに番組の内容や質も良い。特にETV(昔の教育テレビ)の番組にチャレンジングで面白いものが多い。スポンサーの意向なんか気にしない、スカッとした番組作りが気持ちいい。

そんなNHKの快適視聴に慣れた家人にとって、ムダに長いコマーシャルやあからさまな“CMまたぎ”は不快そのものでしかなかったらしい。
「次からは録画して(コマーシャルを)飛ばして見るわ」と家人も上記コラム主同様、「アドブロック」宣言をしたのでした。

確かに、民放テレビの情報やコンテンツを取得しようと思ったら、コマーシャルもあわせて受容すべきなのは、これは情報の提供サイドとユーザーサイド間での暗黙のルールだった。これまでは。

ただ、そういうビジネスモデルは、そろそろ古くないか。時代遅れになってないか。
ユーザーはもはや受け身な存在ではなく、スマホやネットで自分が欲しい情報を主体的に取得できるようになっている。

いままでは
提供サイド > ユーザー、という図式だったけれど、これが
提供サイド = ユーザー、あるいは
提供サイド < ユーザー、といった地殻変動が起きつつあるように思う。

これまでは提供サイドに主導権があったが、「だったらオレはこっち見るからいいよ」とユーザーサイドの選択肢が広がっている。
相対的に、そこで消費される情報やコンテンツの価値も絶対ではなくなってきている。
コンテンツはもはや過当競争、民放のバラエティ番組なんか良い例だ。

そんな状況で、ユーザーにとって邪魔でしかないアドを差し込んだら、ただでさえ相対的に低下しているコンテンツの価値をさらに下げるだけだ。
ないしは、「それでも見たい」という気持ちを起こさせるコンテンツを提供サイドは制作するべきだと思うが、いまの提供サイドにそれができるほどの余裕があるんだろうか。これはテレビに限らず、ネットの業界でも同じだ。

上記コラム主は提供サイドの立場から、だからこそアドの再定義が必要だと訴えている。

僕はユーザーサイドの立場になって、こう思う。
いまの時代、タダはクズと同義だ。必要な情報は、金を払って自分のモノにしよう。
タダの民放番組より、有料のNHK番組の方が快適で良質なように。これはネットも同じだ。

同じようなことを以前もいろいろ書いていた。よっぽどフリーミアムがキライなんだな(笑)

無料→広告でマネタイズ、はもう限界でしょ。ウェルク事件で改めて思うこと。

「無料」は何も生まない。それどころか、世の中をどんどんつまらなくしている。

朝ドラ「ぺっぴんさん」ミスチルのテーマ曲、詩にツッコミを入れてみる

どんなことを唄いたいのか、意味が分からないんだ、始まってから2か月以上たったいまでも。

NHKの朝ドラ「べっぴんさん」をだいたい毎朝見てる。
で、必然的にオープニング曲もだいたい毎朝聴くことになるんだけど、
何度聴いても分からないんだ、これが。

その唄は、こんな感じで始まる。

雨上がりの空に七色の虹がかかる
ってそんなに単純じゃない
この夢想家でもそれぐらい分かってる

※ミスターチルドレン「ヒカリノアトリエ」より
詩は私の聞き取りとNHK番組のテロップより(以下同じ)

 ↓
———-
虹が出たからって、ハッピーになれるわけじゃないよ。
そんなことぐらい分かってるさ、
———-
って意味でしょうか。
この人は、ちょっとネガになってる感じですかね。

で、中盤はこういう気分でしの内容が進んでいる感じかと。
———-
どうも心がじめじめしちゃいがちだから、
カラッとした気分になれるように頑張ってみたり、

でも下ばっかり見てたらいいことも見逃したりして
何にも変わらないよね、
———-

そしてラスト、
オープニングの映像でヒロインの坂根さんがスキップし始めるところですが、

さあ 空にかかる虹を今日も信じ 歩き続けよう
優しすぎる嘘で涙を拭いたら
虹はもうそこにある
きっと虹はもうここにある

って、おい!
出だしで虹をディスってたんじゃなかったっけ!?
“単純じゃない”って言ってなかった?

こんなに単純に虹を信じちゃうの??
ものすごいどんでん返し、なんだかついて行けない。

“優しすぎる嘘”っていうのは、
思いやりとか励まし、のことかと。他の人のそういう気持ちに触れて、
ネガな気分の心もなんだかほどけて
「頑張ろう」って思えるようになった、そんな感じか。

ポジティブソング、応援ソングの王道を行くような詩の展開ですね。
ここに刺さる人は結構いそう。

だからといって、そんな単純に虹を信じちゃっていいの?
そんなカンタンに信じちゃったら、悪い人に欺されない?
オジサンはちょっと違うと思うけどね。

要は、詩の意味が一貫してないの。
最初と最後で言ってることが180度、まったく違うから、
毎回、おいおい、って突っ込みたくなる。
毎回、ということは、毎朝。毎朝おいおい。

せめて、オープニングとエンディングの間に
そのどんでん返しのいきさつが分かるような、ブリッジになるような詩があれば
もうちょっと気持ちにスッと入るようになると思うんだけど。

「太陽の防腐剤」がそのキーワードになるかな、と思うんだけど、
それ以上のことは読み取れないなぁ。

おんなじ分かんない詩でも、例えばスピッツの「ロビンソン」なんか、
ぶっ飛びすぎてるから分からなくても許せてしまう。
だって、宇宙に風が吹いちゃうんだよ。もう好きにして、って感じ。
完全完璧、独自世界。草野くん、唯我独尊。

でもなぁ、この中途半端に分からない詩は、
僕には聴いてて居心地が悪い。

この他にも「ってそんなに」「夢想家」「太陽の防腐剤」とか、
コトバのチョイスでも“桜井ワールド”が炸裂しているようだけど、
単に詩の聞き取りを難しくしてるだけのような気がしないでもない。

いつだったか、エンディングでもわざわざこの曲をかけたときがあって、
(映像の尺が余ったのか、聞き取れないってクレームがあったのか?)
そのとき詩のテロップも画面に流れて
それでようやく「あ、そういう歌詞だったのね」ってやっと納得できた。

それと。
「夢想家」は意味から考えると「楽天家」の方が通じやすいと思うけど、
そうなると上手く曲に乗らないんだろうな。
でも僕の身近に、夢想家はあんまりいないけどなぁ。

あ、ただ
曲のエンディングはイイ感じ。

詩も演奏もバシャッと終わる。文章で言うところの体言止め。
曲の余韻を残しつつ、でもドラマの映像の世界にスッと入っていける。
そこら辺は計算されているなぁ、と思ってる。毎朝ね。

これを買えばテーマ曲の歌詞も書いてあるんだろうか?

「知恵ある人」だからこそ。

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福島原発事故の検証番組ですね。解釈によっては原発否定にも、あるいは事故当時の生検だった民主党批判にも取れる番組なので、衆議院選挙後のこの時期になったのか、なんて勘ぐりながら見てたり。
時間が経ったことで出てきたデータや事実、実験結果などをもとに、事故当時の問題点を探っています。放射性物質の大量放出のデータや、その状況を再現したアニメーションは、ちょっとショッキングでした。
でも、「結局、使う人間の問題だよな」と。
“原発安全神話”を作り出し、対策をないがしろにした設計、運用の誤謬だよな、と。
同じような人がいまも職に就いているらしいけど、果たして、そういった根本的な姿勢は変わったのか、何だかとっても疑問。
例は違うかもしれないけど、クルマの日産が長年赤字を垂れ流し続けてもなかなか組織改革できず、結局、外部からカルロス・ゴーンさんを招聘して生まれ変わった。あれと同様に、例えばレギュレーションを決めるなら、アメリカやフランスなどの外部の識者に加わってもらうとか、運用も同様にするとか。そのくらいの“荒療治”が必要なんじゃないか、と。
僕は、原発はあってもいいと思う。確かに、この番組でも明らかになったように、未知の領域が多く、危険な技術。ハイリスク・ハイリターンなエネルギーともいえる。
だけど、危ないからといって、ここまで開発してきたことを捨ててしまうのもどうか、と。
僕らが小さい頃、まだ小学校でえんぴつを使ってた頃、えんぴつを削るボンナイフは危険だ、ということで学校や家庭でいっせいに使用禁止になった。そのおかげでナイフはおろか包丁も使えない子どもが増えて、例によって「最近の子どもは・・・」と説教垂れる大人まで出てくる始末。使わせなくしたのは、あんたたちだよっ!
今どき、危ないものはいくらでもある。
ナイフの他にも、クルマは人を殺すし、インターネットではテロも起こせる、人智を凌駕するAIも出てくるかもしれない、なんて言われてるし。
危ないから、といって、止めてしまうのか。進歩や進化を止めてしまっていいのか。
「ホモ・サピエンス=知恵ある人」を名乗るなら、科学や文明を正しく使う知恵を発見して、それを利用して、もっといい明日を作っていこうよ。
僕はそっちの方が、次の世代のためになると思う。
※画像はリンク先より