俺たちのユキヒコ!

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「さ・と・お! さ・と・お!」
味スタに、コールがこだましました。あれは、2005年あたり、清水戦だったか。
コールの対象は、佐藤由紀彦。
2002年までFC東京に、その後、横浜Fマリノスや清水エスパルス、柏レイソルなどを渡り歩いたMFの選手。
僕が東京のゲームを見始めた頃、彼は右サイドに君臨していた。エンドラインぎりぎりから挙げる彼のシャープなセンタリング、そのボールの軌跡、そこから生まれるゴール、歓喜!
「ユキヒコ、ユキヒコ、俺たちの〜♪」
ゴール裏でよく唄われていたチャントは、いまも耳に残ってる。
そのユキヒコも、注目株だった石川直宏選手に追われるようにして東京を後にしたのが2003年。
アウェーチームの選手として、東京のホーム、味スタに戻ってきた。
そこで東京のゴール裏から起ったのが冒頭のチャントだったわけ。
あのとき、佐藤選手はボールをロストしてタッチラインを割ってしまった。ちょっと情けないプレー。それに対してわき起こったチャントだった。
そのミスを揶揄したのか、俺たちの元アイドルを叱咤劇励したのか。僕は後者だと思ったけど。
もはや「ユキヒコ」ではない。
敵チームの「佐藤選手」である。
だけど、自分たちにとっては忘れられない選手。
そんなジレンマというか切ない気持ちが、「さ・と・お」のチャントにこもっていたように思えた。
東京のゴール裏は、口は悪いけど、愛情は深い。
J2の長崎で選手を続けているのは知っていたけど、どうしているのか、気になって調べてみたら、ことし引退を決意した、とあった。
ブログにもエントリが載っていた。
おつかれさま。
あのセンタリングの軌道は、いまでも憶えているよ。
そして、フットボールは続く。
※画像はhttp://blog.jplayers.jp/sato/より

そこは、入ってくるところじゃない。

「それは余計なお世話だよ」
思わず、ちょっと声を荒げてしまった。
昨夜のこと、友人から電話があって。
ひとしきり、くだらない話のあと、子育てにかかるお金の話に。
あいにく、その友人には子どもがいない。欲しかったけどできなかったのか、自分たちの意思で作らなかったのかは知らない。僕が感知することではないし。あいつから話してくれば、聞いたかもしれないけど、話してこないし。
誰しも、立ち入って欲しくない部分があると思う。いくら長いつきあいでも。
そういうところは、とくに関わらないようにしたいと思ってる。気を回しすぎかもしれないけど、僕がそうしてほしくないから、他の人にもしないだけだ。
だけど、どういうわけか、昨夜の彼はその“一線”を越えてきちゃったんだな。
子育てにはカネがかかるだろう、それも二人もいるとなるとなおさらだよね、僕の友だちにもいまヒーヒー言ってるのがいるんだけどさ、いますごいかかるんだよね?
途中から、黙って聞いていられなくなった。
経験ないのに、知ったクチきくなよな。お前には別にそんなことどうだって良いことじゃないか。そこは俺が触れてほしくないところ。例えお前でも、訳知り顔で首を突っ込んで欲しくないな。
帰宅して一段落、さあこれからビールでも飲もう、というときだったせいもあって、イライラもボリウムアップ!
そう。ワイドショーとか見ていても思うんだけど、イラッとくるのが、訳知り顔で首を突っ込んでくるリポーターたち。そして偉そうな顔して毒にも薬にもならないことをいうコメンテーターという役の人。あれと同質な感触を、電話の友人にも感じてしまったんだな。
そんな話したって、共感も感動も、なんにも生まれない。
それどころか、当事者にとっては迷惑だったり、苦痛を感じたりするだけ。
「切るよ」と言って電話を置いて、ビールを一杯。少し落ち着いた後、
「俺って、そういうコピー書いてないよな」なんて、自分の仕事を思い出したりした。

心の境界線。

「それは余計なお世話だよ」
思わず、ちょっと声を荒げてしまった。
昨夜のこと、友人から電話があって。
ひとしきり、くだらない話のあと、子育てにかかるお金の話に。
あいにく、その友人には子どもがいない。欲しかったけどできなかったのか、自分たちの意思で作らなかったのかは知らない。僕が感知することではないし。あいつから話してくれば、聞いたかもしれないけど、話してこないし。
誰しも、立ち入って欲しくない部分があると思う。いくら長いつきあいでも。
そういうところは、とくに関わらないようにしたいと思ってる。気を回しすぎかもしれないけど、僕がそうしてほしくないから、他の人にもしないだけだ。
だけど、どういうわけか、昨夜の彼はその“一線”を越えてきちゃったんだな。
子育てにはカネがかかるだろう、それも二人もいるとなるとなおさらだよね、僕の友だちにもいまヒーヒー言ってるのがいるんだけどさ、いますごいかかるんだよね?
途中から、黙って聞いていられなくなった。
経験ないのに、知ったクチきくなよな。お前には別にそんなことどうだって良いことじゃないか。そこは俺が触れてほしくないところ。例えお前でも、訳知り顔で首を突っ込んで欲しくないな。
帰宅して一段落、さあこれからビールでも飲もう、というときだったせいもあって、イライラもボリウムアップ!
そう。ワイドショーとか見ていても思うんだけど、イラッとくるのが、訳知り顔で首を突っ込んでくるリポーターたち。そして偉そうな顔して毒にも薬にもならないことをいうコメンテーターという役の人。あれと同質な感触を、電話の友人にも感じてしまったんだな。
そんな話したって、共感も感動も、なんにも生まれない。
それどころか、当事者にとっては迷惑だったり、苦痛を感じたりするだけ。
「切るよ」と言って電話を置いて、ビールを一杯。少し落ち着いた後、
「俺って、そういうコピー書いてないよな」なんて、自分の仕事を思い出したりした。

2種類のウェブデザイナー

ウェブデザイナーって、2種類いると思う。
いままで広告やカタログのデザインをしていたグラフィックデザイナーが、ウェブやコーディングに関する勉強をしてやる場合。
もうひとつは、それまでコンピュータ・ソフトウェアの開発に携わっていたエンジニアが、Webページの制作も行なうようになったパターン。
グラフィックデザインという方面からやってきた人たちと、
システム開発という分野からやってきた人たちが、
ウェブデザインという世界でガッチャンコしてる、というイメージ。
なので、両者はやり方がまるで違う。
グラフィック系は、まず、やりたいことありき。
ビジュアルとかの素材、それを見せたり動かしたりするアイデアがまずあって、それをコーディングのときに何とか組み立てていく。そんな感じが多い気がする。
なので、ソースが複雑になりがちで、表示やメンテナンスに時間がかかることがあったり。
システム系は、まず、コーディングありき。
各ページをどのようにルールに則ってコーディングし、スマートでハンドリングしやすいソースに仕上げていくか、そういうことを考えて進めている人が多いような。
仕上がったページは、確かにウェブページなんだけど、レイアウトや面白さでは物足りないなぁ・・・ということも。
そんなわけで、グラフィック系のウェブデザイナーには、広告キャンペーンみたいに、「面白いじゃん、これ」と思わせるようなページを作ってもらうとイイ感じ。
システム系の人には、サービスサイトのように、大量の情報も見つけやすく、しかもあとあと更新や編集しやすいサイト構築などでチカラを発揮するように思う。
この世界も、やっぱり適材適所。

鹿が増えてるってー?

土曜日は、恒例の「忘年ハイク」。
ハイクとかトレッキングとか、最近の流行りに聞こえるけど、どっちかというと、酒とかつまみをしこたま背負って山に登って、頂上で消費してくるおっさんたちの会、というのが正解。
参加者もだんだんトシとって高い山に登るのが難儀になってきた(だったら背負っていく酒とか料理を減らせば良いんだが:笑)という理由と、「火山活動の激しそうな山は禁止」というメンバー各自の家人の厳命から、鎌倉にある大平山という建長寺の裏庭的な山へ。こんなところにも、御嶽山の影響が。
で、そのメインディッシュ、去年は牛肉のビール煮が、ウマーでした。
そして今年は、シカー!?
メンバーの一人が「猟師」を始めたのがきっかけで、鹿肉のワイン煮が今年のメインディッシュに。ジビエといえば聞こえは良いけど、、、
鹿は、先日のエントリでも書いたとおり、山里でも珍しくない動物。とくに猟師を始めたそのメンバーがよく行く奈良では、鹿が増えすぎて困っている。
そこらじゅうの樹木の皮を食べ尽くしてしまうので、樹が弱り枯れて、山全体に悪影響をおよぼしているんだそうだ。もちろん、畑の作物を食べ荒らしてしまうし。
保護が進んだ → けど、増えすぎてしまった → だけど駆除する方向に戻れない
というところで行政がウロウロしている間にどんどん増えてしまっている、そんな感じらしい。
これまで、昼間しか猟銃は使用できなかった(知らなかった)のが、夜間でも許可されるらしいけど、焼け石に水だろう、と。
「一度、方向が決まったら、なかなか修正が効かないよなぁ、日本って」
「そうそう、鹿を殺したらかわいそう、っていうひとが多いけど」
「でも、村の人は困っとるで、実際」
「別に、村の人が増やしたくて増えたわけじゃないんでしょ?」
などとみんなで話しながら、鹿肉をいただきました。
獲ってきた彼は「これで成仏させられた」と言ってました。
味というか、噛みしめた感じは、ちょっとぼそぼそだった。

エネルギー問題を考えることは、僕らの未来を考えることなんだよ。わかってる?

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菅直人の選挙カーとすれ違った。僕が住んでる選挙区に立候補しているので。
今回の選挙の争点として、原発を挙げる候補者や政党も多い。菅さんもその一人。
だけど、納得いくことを言ってる候補者や政党は、どこにも見当たらない。残念ながら。
そもそも、原発の問題を考えるということは、僕らの未来の暮らしぶりを考えることじゃないのか?
だってそうでしょ。原発=エネルギーは、僕らの毎日の暮らしやビジネスに直結してる。
原発を使わない = 限られたエネルギーでこぢんまり、清貧に生きるという選択肢を選ぶということだ。エネルギーや資源をばんばん使う工業的な活動は避けて、必要なものだけをこしらえて、ムダなものは出さないようにしないといけなくなる。
というか、水力発電や発電効率の悪い再生可能エネルギーだけでやっていこうとするなら、生産コストがやたら高くなるので機械や化学などの工業生産事業は日本では成立しなくなる。これまでカネ(外貨)を稼いできた「仕事」ができなくなるわけだから、当然、貧しくなる。その貧しい中でも帳尻を合わせていかざるを得なくなる。原発反対を唱える候補者や政党は、そこまで視野に入れて言ってるのか?
「天空の城ラピュタ」に出てくる、ゴンドアの谷の人みたいに生きていくんだとしたら、それはそれで悪くないとは思うけど(けっこう本気)。
逆に原発を活かすんだったら、今後も前と同じように「成長する国家」を目指すという選択になる。だったら、次の成長戦略を描かないと。だけど、推進派の言い分を聞く限り、そこまで踏み込んで考える候補者や政党は見当たらない。みんな「これまでそうやってきたんだから、同じようにこれからもやりたい」っていうふうにしか聞こえない。
原発も使わずに成長を目指す、というやり方もあるだろうけど。いま、何とかその状態でやってるわけだし。
だけど、原発分のリカバーで火力の発電量を増やさざるを得ない → CO2出しまくり & 原油購入で赤字垂れ流しの現状をどうする?
エネルギー問題を考えることは、僕らの未来を考えることだ。
原発をやめるにしても、動かすにしても、そうじゃないにしても、この際だからこの国の未来の戦略を描き直して、その上で決めることじゃないのか。
311で原発の問題に気付いたからこそ、みんなで話し合ういいチャンスじゃないか、と思ってたんだ。
それなのに、羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くじゃないけど、「原発いらない」「子どもたちに豊かな日本を」とか、感情が先走ったような短絡な訴えばかり。推進派はこれまで通り「なし崩し」でやろうとしているし。やれやれだ。
戦後レジームが終わり、グローバル化とか、途上国の台頭とか、ITやネットなどテクノロジーの発達とか、日本だったら人口年齢の構造変化とか、いろいろガラッと変わってるわけで。そんな中、今まで通りの気分やロジックで問題解決を目指しても、何にも進まないよ。きっと。
必要なのは、「次はこうする」っていう僕たち自身の目標設定と、そのための戦略立案だよ。それを基軸にして問題を整理していくしかない。
エネルギー(原発)問題に限らず、TPPとか、集団的自衛権とかも、同じことだと思うんだけどな。

もういらない!?

髪を切りに行っていない。美容院とか、床屋とか。もう10年近く経つ。
気に入っていていつも行っていた美容院が、ある日、不動産屋になっていたのがきっかけ。
どこで切ってもらおうか、じくじく悩んでいたら髪がぼうぼうになって。美容院に行くと、予約入れてくれとかめんどくさいし。初めてだとなおさら。
で、ある日、子どもの散髪で使っていたハサミを使って切ってみた。それが、そもそもの始まり。
最初、スキばさみで髪全体を軽くして、鏡を見ながらチョキチョキ。後ろとか見えない部分は奥さんの手を借りたり。
ちょっと、虎刈り。だけど、ムースとかで仕上げれば、見た目分からない。
けっこう何とかなるもんだ。
でもさ、「これって、俺の仕事にもいえるよな」、
ある日、チョキチョキしながら気付いた。
パンフレットとか、Webとか、今どきの制作物はクライアントからテキスト原稿が出てくることが多い。
それも、PowerPointを使って上手にまとめてきたり。それを見て「なかなかやるじゃん」なんて感心したり(おいおい!)。
素人をあなどってはいけない。
むしろ、現場にいる本人が作ってるわけだから、深い知識や愛情があったりで、そんな気持ちが原稿ににじみ出て、いい味を出している場合もある。
単に、髪を切るだけだったら、もはや美容師はいらない(僕の場合だけどね)。
コピーを書くだけなら、もはやコピーライターはいらない。
だとしたたら、プロとして客に提供できる「価値」は何なのか。
なんて、自分でチョキチョキしながら思ったりしてるわけ何だけど。
まさに、人の振り見て我が振り直せ、って感じ?
※画像はhttp://sakamichi-hair.comより

売らない、というセールス。

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「このまま様子見てもいいんじゃないですか」
シャキッと、髪をポマードで整えた初老の店員が僕の目を見ながら言います。分け目からの髪の流れに、このあいだ亡くなった菅原文太さんを思い出したり。
府中の駅前の眼鏡屋さん。いまは駅前開発の真っ最中で、ガード下の別な仮設店舗で営業中。何分かおきに頭上を行き交う電車のせいでゴトンゴトンと少し揺れてる。「地震じゃないか、ってビックリするお客様もいらっしゃいますが、私はすっかり慣れました」と、そのセールス氏。
いまのメガネを作ったのが3年前。すこし度が変わってきてる? 最近、眼精疲労が強くなった気もするし。ということでそのメガネ屋さんへ。
でもお店で実際に検査してみると、その3年前と視力は大して変わらず。「強いて言えば、右目の近視が強くなった程度でしょうか」と。
で、冒頭の結論になったわけ。
「無理にお客様におすすめすることはありません」
つまり、客に本当に価値のある商品やサービスを届ける、ということなんだろうな。
結局、洗浄やネジの増し締めなど、メンテナンスをしてもらって店を後に。
あのあと、2日経ったけど眼精疲労は減ってる。別に作り直さなくても、メンテナンスだけで良かったわけで。
これが、プロのサービスなのかな、とちょっと感心したり。
「でも、来年になったら、視力が変わってるかもしれませんので、またおいでください」と、そのセールス氏は言ってました。
素直に行こう、と思えちゃいますね。こんなサービスを受けたら。
駅前の開発はあと3年はかかるのだそう。
なので、来年もあのゴトンゴトンの仮店舗に行くんだな。と、駅通路から見える開発の光景を見ながら思ったのでした。

シカなう!
黒い影が前方にチラッと。
「?」と思うまもなく、前を走るクルマが急激に左に進路を変えて、
開けた視界に見えたのは、鹿!
それも大きな角を生やした、立派な体躯の雄。
道の真ん中にうずくまって、こっちを見てる。僕と目が合った?
急ブレーキ。
手前2メータくらいで停止。
それを合図にしたかのように、鹿はジタバタと立ち上がり、視界の左の方へ。そっちは民家と多摩川なんだが・・・。
日曜日の早朝、青梅街道を走っていて鹿に遭遇しました。
山梨方面に向かっていて、右側はガケ、左側に民家と多摩川が流れる、といったロケーション。前日からの雨で滑りやすく、急斜面から滑って落ちてきたのではないか、と。
逃げるときも、鹿は濡れたアスファルトに足を取られていました。
 
以前、奈良・吉野の山奥で二度ほど(そのうちの一回が↑のムービー)、富士山麓の原生林の道で一度、クルマで走行中に鹿に遭遇したことがあった。
 
だけど今回は、青梅線の鳩ノ巣駅付近。山里には違いないけど、青梅街道はよく走る道だし、トレッキングでこの付近を歩くことも。要は、山奥ならまだしも、人もクルマもまだまだ多いこんな山里にも野生動物が降りてきてるのか! とびっくり。
 
今年は長雨でどんぐりなどの木の実が少なく、クマが民家や畑まできて荒らしている、腹が減っているので気が立っているので注意、という記事を目にしたけど、その流れなのか。
とにかく、この世は人間ばかりじゃない、ということだ。

むかしが見える


細い通路。なんでこんなのが残ってるの?
府中市内で最初見たときは不思議に思ったけど、その先を見てすぐに納得。
神社への参道だったわけですね。
昔は甲州街道の旧道からからそのままダイレクトにお社に伸びていたんだけど、途中で甲州街道の“新道”ができたせいで、そこだけ中断されるかたちに。
写真の参道の奥には、上染谷八幡神社が鎮座しています。
そういえばこの八幡さまの北西にある人見稲荷神社も同様に、細長い参道が途中、新しく作られた道路にさえぎられてる。
東府中に行くと、武蔵国府八幡宮の参道を、京王線の線路が横切っている。
まさに、過去と現在が錯綜してるわけで。
昔々は、この細い参道を、村の人たちが行き交ったんだろうな。
その両側には、村の人の家とかが建ち並んでたりして。
いまはぶっきらぼうにアスファルト舗装されているその道を歩きながら、思ったのでした。