アナログは偉いの?

アナログの良さが分かるなんて、偉いねぇ!

と、感心されてしまいました。僕の中学生の子どもが銀塩写真を始めた、と話したときのことです。

何人かに話したのですが、いろいろな反応がありました。
「デジタルはやらないの?」
「面白い子どもだねぇ」
といった反応が一般的。ただ、主に僕より年配の方が一様に、冒頭のような反応をしていました。

ちなみに、うちの子どもはデジタル一眼レフも持っています。お年玉を貯めて買いました。
その上、さらに20年くらい前のフィルムの一眼レフを中古で買ってきました。古い古いモデルなので、エッ?と思うほど安い値段で手に入ります。また、同じメーカーのボディなので、レンズは双方で共用できます(少し制約がありますが)。

僕が昔々、写真部に入っていて、モノクロフィルムの現像やら引き伸ばしをしていて、その話に興味を持ったのかもしれません。
現像の道具は、中古屋さんに行って安く手に入れてきました。また、友人が話を聞いて、いまは使わなくなった引き伸ばし機を提供してくれたりもしました。そんなことであっという間に環境が整ってしまいました。

とはいえ、アナログ一辺倒でもなく、必要なときはデジタルカメラを使って撮影しています。
デジタルにはその場で結果が分かったり、パソコンに取り込んで加工したり、いろいろ楽しめます。
また、アナログは、機械式のカメラで撮るという行為そのものがもはや楽しみです。その後、現像から引き伸ばしまで、すべて自分が計算をして手を下すことができます。デジタルとは違ってやり直しがききませんが、それも適度な緊張感があり、かえって楽しんでいるみたいです。

アナログを知って、デジタルの良さを再確認したり、楽しむ幅が広がったといえます。ちょっとうらやましいような、、、(笑)

なので、冒頭の「偉い」というのは少し違和感がありました。
その言葉の裏に「アナログ > デジタル」という価値観を発言者が持っていることが透けて見えたからです。
アナログはデジタルよりも凄い、それを楽しんでいるのは本当の価値が分かって偉い。そんなステレオタイプ的な意見は、ただデジタルを否定したいだけじゃないか、とさえ勘ぐりたくなります。

※画像は、http://ja.wikipedia.org/wiki/ペンタックスの銀塩一眼レフカメラ製品一覧:35mm判_(KマウントMF機種) より

そんなこと、誰が言い出したの?

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タブレット端末の売上げが頭打ち、というニュースがありました。

ざっくり、2014年のタブレット端末の売り上げ予測が2.3億台、成長率がそれほどでもない(6.5%)なので、年間3億台を安定して売り上げているPCは抜けない、というレポートだそうです。

2010年に発売されて5年、ニュースリポートなどで「やがてPCを抜く」などともてはやしていたせいか、今回、“がっかり”という言い方までされています。

そうでしょうか。

僕はiPadもMacBook Airも使っていますが、使用頻度が高いのは圧倒的にMacBook Airです。iPadを買ってすぐから、そんな状態です。

iPadは、確かにデータの閲覧性には優れています。でもそれだけ。スティーブ・ジョブズが言うように、リビングでテレビを見ながら気になったことをネットで調べたり、次の休みにどこに行こうか?と家族で行き先を探したり。そんな使い方がベストにして唯一。

反面、iPadで仕事をする気にはなれません。だって、データの入力装置(キーボード)が貧弱ですし、いざデータを作ってもそれを記憶させる仕組みがOSに用意されていません。データ作成しにくくて、苦労して作ってもしまっておけないわけです。

これはPCの代わりにはならないな、iPadは別の使い方だよね、仕事にはやっぱりPCだな、と、iPadを使い始めてすぐに判断つきました。まぁ一部のサービス業や教育などで適性はあるかも知れませんが。

なので、そんなデバイスがどうして「PCに取って代わる」と予測できるのか、不思議でなりませんでした。iPadなんかさわりもしないままアナリストが“予測”し、それに“ニュース”を作りたいマスコミが乗ったのでは、なんて勘ぐったりもしています。

そんなわけで、今回のニュースを見ても「あぁ、家庭のリビングに行き渡ったんだな」くらいにしか感じませんでした。“がっかり”もしなかったし(笑)。

とはいえ。なくちゃいけない、というモノではないけど、あるとめちゃくちゃ便利ですよ、iPad。

残暑おでん

おでんが出ていました、コンビニに。そろそろ夏の終わりとはいえ、まだ8月なのに、です。

「コンビニにおでんがある」ということを、来店したお客さんに周知するために早めに出している。と、どこかで聞いた記憶があります。

それに今年は雨が多かったり、気温が低めで、売上げもきっと低調だったはずです。そんなマイナスを取り戻すために、早めに秋・冬商戦に切り替えているのかも知れません。また、ライバルとの関係で、負けていられない、という事情もあると思います。

ま、広告宣伝の一貫なのでしょう。とはいえ、まだまだおでんが食べたい季節ではありません。きっと売れ残りも発生しているはずです。そんなロスも、広告宣伝コストとして割り切っているはずです。

おでんで思い出しましたが、以前担当していたランドセルの仕事でも、同様なことがありました。

ランドセルといえば、以前は商戦といえば年末年始あたりから。それを、少しでも早くから「刈り取ろう」と、お盆で実家に帰省したチャンスを狙って商戦を張りました。

お盆で帰省した孫に、おじいちゃんおばあちゃんがランドセルを買ってあげるというストーリーです。

小学校入学は、家族の一大イベント。その象徴的な商品がランドセルです。それを、祖父母が孫のために選んで、買ってあげる。今は色やカタチがいろいろありますから、その中から孫と話し合って、気に入ったひとつを選んで。おじいちゃんおばあちゃんは、孫が喜ぶことをしてあげられた満足感が味わえます。また、孫の親(祖父母の子ども)にとっても経済的にうれしいし。また、孫自身も帰省中のいい思い出になって、幼稚園の宿題の絵日記に描いたりするのではないでしょうか。

実際、先日のお盆期間中のニュース番組で、そんな光景を映して放送していました。お盆にランドセルは、もはや一般的になったのかも知れません。

みんなに「win」のストーリーがあると定着しますね。ランドセルのように。

その一方で、おでんはどうなんだろう? と、ちょっと懐疑的になったりも。こっちの方は、提供側(コンビニ)の都合の方が先走ってないかな、という気がしています。

※トップ画像はhttp://www.circleksunkus.jp/product/oden/index.htmlより

勝ち組?

僕のまわりで、ちょっとしたベビーブームが来ています。去年は1人、今年に入ってから2人、誕生しました。

新しく父となったのは30代が2人、一人は40代。30代もどちらかというとアラフォーに近いので、パパも高齢化ですかね(笑)。

結婚が遅かったり(独身時代をずっと楽しんでた?)、結婚はしていたけれど奥さんの仕事の事情で先延ばしになっていたり、夫婦の趣味や生活を優先していてなかなか子どもまで気持ちが向かなかったり、それなりに状況がいろいろあったようです。

これまでの世の中の常識がいろいろ、ガラガラと崩れていますが、特に顕著なのが「結婚」と「出産」じゃないかな、と思ったりしています。

これまでは、ある程度成長したら「結婚」して「子ども」を作るのが当たり前でした。まわりも、「で、子どもは何人ほしい?」みたいな会話をしていました。

でも、女性が仕事に就いたり、経済的な事情やらで、まず結婚が難しくなり、さらに出産も減りました。最近は「結婚はまだ?」「子どもは作らないの?」といった会話もはばかられるように。

こうしてみると、結婚しただけでも、子どもができただけでも、もはや「勝ち組」なんだな、と思います。まして2人目は?なんて、恐ろしくて聞けません(笑)。

なるほど、少子化になるわけだなぁ、とあらためて感じました。

これも現実。

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まさに、戦争と平和?
紙面は生々しい戦闘装備の紹介、その下は、アニメの広告。「戦車」つながり、といえばそうなんだけど。

先日の「そうかえん」のときにもらったタブロイドです。
紙面は小野寺防衛大臣など、偉い方々のあいさつに始まり、いまの陸上自衛隊の装備(写真の紙面ですね)とか、当日のプログラムとかが並んでいます。その下の広告欄を見て、エッ!と思ってしまったわけです。

写真の他にも、DVDアニメの広告がもう一点。その他は自衛隊オリジナルグッズ(カレーは美味しそう!)、そうかえんのDVD、演習所近くの旅館などの広告が並んでいます。

最近、自衛官募集のポスターに、AKBの島崎遥香が使われてちょっと話題になりましたが(その広告も出てる)。それにしても、アイドルとかアニメとかの波は、こんなところにも来てるんですね。

そうかえんで、防衛(というか戦争ですよ、ほとんど)の現実を見たのですが、その一方で、平和な日本の現実も見た気がしました。

ほんとうの戦争。

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最後は、歯を食いしばって見てました。なんだか、こちらに向けて実弾を次々と撃ち込まれているようで。

特に、4台の10式戦車が同時に実弾を発射する光景は鮮烈でした。鋭く、ものすごい轟音。何かを引き裂くような、すべてを覆すような。同時に押し寄せる音の衝撃波。頬や腕など、無防備に露出した部分に衝撃を伝えます。そんな実弾が、世界遺産、富士山のふもとの演習場に何発も撃ち込まれていきました。

陸上自衛隊の「そうかえん」を見てきました。
自衛隊の装備が、実際に実弾射撃をしながら、演習を行います。

「痛い、なんて感じることなく死んじゃうんじゃないか」
「死体なんて、一瞬で見分けつかなくなるくらいバラバラになるよ」
僕たちを含め、そんな感想を話し合っている人がたくさんいました。また、そんなことを思わずにいられない、圧倒的な武器の数々でした。

後半の演習は、「島嶼部に対する攻撃への対応」という設定。いまを反映して、ものすごく実践的です。国としては、とても切実な問題ともいえます。

集団的自衛権で、憲法解釈が問題になっています。テレビやネット、新聞で論議され、僕も頭の中ではいろいろ考えていたつもりでした。
戦争とは、どんなことなのか。また、国や生活をも守ると言うことは? 自分の生活が戦争に巻き込まれたら。子どもたちが戦争に行くことになったら・・・

そんな“頭中の空論?”を、木っ端みじんに吹き飛ばすほどの衝撃がありました。演習とはいえ、これが現実(それもほんの一端だけど)なのだと思いました。

実際に見てみて、本当に良かった。帰ってきたばかりの今は、それだけ言うのが精一杯です。

おにぎりと想像力。

おにぎり2万個、握れますか。

高校野球のサイドストーリーとしてニッカンスポーツが取材したこの記事がバズって、炎上のような騒ぎになりました。

スポーツ新聞としてはありがちな“美談”です。
甲子園を目指す選手、それを支える人たち、その例として「2万個」というインパクトある数字。甲子園での野球をスポーツとしてではなくドラマ的に切り取ったニュース。「根性」や「献身」といったキーワードが浮かぶ、ずっと昔からおなじみだった日本スポーツ報道の、ひとつのスタイルだといえるでしょう。

それに対してTwitterなどネットの世界で、「男尊女卑」「家事ハラスメント」「労力の無駄」と、ネガティブな反応を示した人が多く出ました。言われてみれば確かにそうで、中には「アメリカのスポーツ活動に女子マネージャーというポジションはない」と、“世界基準”を教えてくれる人もいました。

この対立の構図が面白いな、と僕は思いました。
件の女子マネージャーを含む甲子園関係者と、Twitterなどで“おにぎり批判”するような人は、まさに対局、アッチとコッチで絶対交わらないような感じがしたからです。

「甲子園」をめぐる情熱は、先輩から後輩へ、兄から弟へ、親から子どもへ受け継がれ、学校や地域で熟成されています。これまでずっと続けてきたことや、それらをちょっとブラッシュアップしたりして、これからも甲子園出場を目指し、がんばり続けることでしょう。多分、10年前もそして10年後も、同じような情熱や熱気が、この世界に満ちているはずです。おにぎりのマネージャのように、無償でサポートしてくれる人も絶えないことでしょう。いわば、甲子園の生態系です。

その一方で、世の中はどんどん変わっていきます。セクハラ、ドメスティックバイオレンス、ブラック企業など、新しい言葉とともに新しい概念や基準が持ち込まれたり、基準が整備されたりしています。
今回、ネットの世界で意見を主張した人たちは、こうした世の中の動きや変化といった、時代の奔流に敏感な人たちのような気がします。

何年経ってもほぼ同じ生態系が守られている釧路湿原のような環境と、天候によって流れる水の量や場所がめまぐるしく変わるアマゾン川の源流域のような環境。そんな対象的な光景が、僕の頭に浮かびました。

地球上では、釧路湿原とアマゾン源流は交わることは決してありません。ですが、ことネットを介すと、それが一緒くたになってしまうことが面白いと思いました。

この地球上には、湿原のような場所も奔流のような環境も同時に存在していて、それぞれにそこに人がいる。そこにいる人たちに話しかけるには、それぞれの環境や文化を把握しておかないと。そういう“想像力”を持ってないといけないな、なんて、誰かに何かを伝えたり、モノを言ったりする仕事をする人間として感じたのでした。

あ、冒頭の話ですけど。僕のためにおにぎり握ってくれる女の子がいるんだったら、お金を払ってでもお願いしたい、と思いましたが。本題からズレてる?(笑)

※キャプチャ画面は、http://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/p-bb-tp3-20140812-1349576.html から頂きました。

今日は、反省の日です。

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昨日、「クルマ離れ」について書いたら、まるでそれを読んだかのように(ソレはない!)、次のような記事がアップされていました。

“クルマ離れ”“内向き志向”…若者をめぐる言説はどこまで本当か?~ニッセイ基礎研究所准主任研究員・久我尚子氏インタビュー~

詳しい内容は記事を読んでもらうとして、僕はこの「ナントカ離れ」のニュースを見るにつけ、次のようなことを感じていました。

◎従来の「アタリマエ」が、そうじゃなくなっちゃった。ということじゃないの? “社会人になったらクルマ”みたいなをアタリマエ論は、右肩上がりの時代ならでは、だったと思います。

◎じゃ、「離れ」ていった人たちは、どこに行ったの? 少なくなったとは言え若い人はいなくなったわけじゃないです。クルマとかCDとかお酒とかから離れていった人は、どこに行っちゃったの、という論議がなかなか出てこないように思います。

知人でアイドルヲタがいます。彼なんか、ライブの“現場”にほぼ毎日出かけていって、それなりの金額のグッズをしこたま買い込んできます。お金がないわけでも、内向きなワケでもありません。

また、アニメの主題歌(アニソン)なども売れています。「ものすごい売れているのに、ランキングに出なくて悔しい」と、少し前、僕の子供が怒っていました。業界では、アニソンは市場を構成する商品とは見なされず、恣意的に外されているようです。見ないフリをされている?  同じCDなのにね(いまは変わったかもしれません)。

マスコミも、僕たちおとなも、これまでのワク組みとか習慣とかにこだわるあまり、現実というか「いま起こっていること」を見ずに「○○離れ」「××離れ」などと嘆いてばかりのような気がします。

そりゃ、いままで通りのビジネスの環境やスキームで、いままで通りかそれよりちょっと多く売れてくれるのがいちばんハッピーなのかもしれませんが、そうはいかないでしょう。

何が変わって、自分はどこを変えないといけないのか、しっかり見て判断して、動く。それが大切か、と。

敗戦の日の今日は、自戒を込めて書きました。

スーパーカー世代、ふたたび?

「最近、増えてますよ、お子さんと一緒に来店されるお客様」

そんなことを、僕がお付き合いしているクルマのディーラーのセールスが言ってました。

聞けば、1970年代のスーパーカーブームを過ごして、結婚したお父さんの子どもが、いまどんどん免許年齢まで育ってきているのだそう。

クルマ好きの親に育った子どもは、やっぱり、クルマ好きに育つらしいです。よその家庭よりクルマに接する機会が多かったり、親の友人にクルマ好きが多かったり。そんな環境で育つと、やっぱりクルマ好きになっていくような気がします。
ま、全員が全員、というわけではないでしょうけれども。

昨日のユーミンや中島みゆきと同じように、そうやって、文化というか市場が継承されている、と思いました。
人口比率の表で、団塊の世代にひと山盛り上がりがあって、その次、団塊ジュニアの世代に盛り上がりが見られるように、波のうねりのようになって、時代を流れていく。そんな感じ?

若い人のクルマ離れが言われて久しいですが、それでも最近、トヨタやスバルからスポーツタイプのクルマが売り出されたり、その他のメーカーでもスポーツタイプの売れ行きが好調らしいです。

もしかしたらお金のない子どもの代わりに、スーパーカー世代の親が買って、その子どもと一緒に楽しんでいるのかもしれません。

※画像はhttp://www.lamborghini.com/jp/傑作/countach/#!slide/3935から頂きました。

ひとつ、とばし?

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「右に競馬場、左にビール工場って唄ってる、あのあたりです。」

どこにお住まいですか、と聞かれてよくこんな返事をしています。言わずと知れた、松任谷由実の「中央フリーウェイ」の一節。実際には、僕の家は中央自動車道よりは少し離れているけど、都心からの距離感はあんな感じです。

ツカミは抜群、ああ、あの辺ですか、って会話が成り立っていました。・・・ちょっと前までは。

この前、「どこですか、そこ?」と怪訝な顔をされてしまいました。相手は、アラサーと思える初対面の方でした。

聞けば、ユーミンはの曲はあまり聞いたことがない。なんだかおばさんの歌手というイメージなのだそうで。もっぱらミスチルとか、B’zとか、そのへんを聞いているそうです。

なるほどなるほど。ああ、こうして時代が動いていくんだなぁ、と思ってしまいました。少し大げさだけど。

ユーミンといえば、サザンなどと並んで、僕らの世代にとっては必修科目ようなもの。時代が流れて、次の世代のアーティストが文化というかマーケットの中心にきた感じです。

僕らの世代が、石原裕次郎や美空ひばりをちょっと前の人と思っている、それと同じことが繰り返されているわけです。

でも、ですね。

うちの子どもたちは、ユーミンを唄います。中島みゆきとか、スピッツとか、ビートルズも。親の僕たちがよく聞いていたせいで、子どもたちに“伝染”していったのですね。中島みゆきなどは、親子でライブに行ったりもしています。

競馬場とビール工場のくだりも、世代をひとつ飛ばして、僕らの子どもたちの世代に受け継がれていくのでしょうか?