ムービー完成?

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やばいなぁ、って頭の裏側で冷や汗をたらり、たらりと流していました。

以前、このブログでも書いたGoProの件、ついにムービーが完成しました。特別にアタッチメントを自製して、まさに犬目線で面白いムービーが撮れています。

問題はこのオーサリング。GoProが無償で提供しているツールを使って、病院の先生自身が制作したのですが、これがなかなか、上出来! その内容は、リンク先で見てみてください。

クライアントにコンテンツを作られてしまったら、まさに「メシの食い上げ」です。ま、この1本を作るのにものすごい時間がかかったらしいですが。

僕のミッションとしては、このムービー(というかプロジェクト)をバズらせて、病院の知名度の向上やブランディングなどに活かすことをやらないといけないわけです。

PCは個人の能力や可能性を広げるツールだ、と、以前から言われていましたが、でも、ここまでできるようになるとは!? 

でも、僕も負けてはいられません! オモシロイことやるぞー!!

かなしい坂

黒澤明監督の傑作「羅生門」のモチーフになった東郷寺の手前に、その坂はあります。京王線多磨霊園駅を南に数分歩いたあたりです。

府中市の碑が立てられていて、そこに由来が説明されています。江戸時代、玉川上水をこのあたりに通そうとしたけれど、何かの理由で水が流れなくなり、計画変更となってしまいました。その責任を問われた役人が切腹を命じられ、辞世の句で「かなしい」と嘆いたことからこの名が付けられたそうです。まさに詰め腹。

この周辺は崖線(がいせん)といって、大昔、多摩川が削った台地です。小金井のあたりで一段、そこから南に行くと、このかなしい坂の周辺でさらに一段、雛壇のような段差のある土地になっています。太古、ここを多摩川の荒々しい奔流が大地を削り取り、そうして残された地形の上に、私たちが暮らしているわけです。

なので、崖線の周辺は微妙な傾斜の坂が多くあり、先の東郷寺も、その傾斜を上手に活かして、黒澤監督が参考にした見事な山門が造られています。

江戸時代の玉川上水も、そんな自然のアンジュレーションに、水の流れを邪魔されたのではないでしょうか。切腹の武士は、多摩川がつくった“わな”のような土地に翻弄された一人かもしれません。

切腹の武士もそんなことを考えていたとしたら、まさに「かなしい坂」です。

かなしい坂のある東郷寺は、春、しだれ桜の名所。奥に見えるのは山門の屋根です。

百“文”は一見にしかず?

つい、足を止めて見入って、そしてカメラで撮っておきたくなります。

自宅近くの学習塾の看板?です。

デジカメ画像やフォトショップの画像処理などに見慣れた僕には、チョークの素朴な風合いと色合いが新鮮です。

やっぱり、ビジュアルのインパクトは強いなぁ、といつもここを通るたびに思います。

僕らコピーライターがいくら書き立てても、それが一目で分かるビジュアル表現があったら、そっちの方がいいに決まっています。

百聞じゃなくて、百“文”は一見にしかず?

とはいえ、精緻な機械の作用とか、人間の細かな心の動きとか、ビジュアル表現では分野もあることは事実。それ以外にも、言葉の持つ力や機能が求められているところがきっとあるはず。そういう「場」をもっともっと作ったり発見したりしていきたいと思います。

って、ちょっと負け惜しみっぽかったかな(笑)

 

浅草の化学反応

浅草といえば、下町、江戸情緒だ。

雷門、仲店、浅草寺、ちょっと行って、花やしきかな?

うなぎ、すき焼き、どぜう、昔ながらの洋食。そして、電気ブランとか?

そんな浅草で、なんでサンバ? と思っていました。

ウィキペディアで調べたところ、浅草演芸場など大衆娯楽としての浅草のイメージをよみがえらせるため、だそうで。

そういえば浅草は、ビートたけしさんなどの芸人をたくさん育てた町でもありました。うっかりしてました。僕の世代では、そんな面影はもはやないんですが。

サンバカーニバルは1981年スタート。その企画には俳優の伴淳三郎さんも加わっていたとか。

庶民の娯楽の殿堂、浅草の意地というかプライドの象徴が、あのカーニバルだったんですね。なるほどなるほど。

それにしても、浅草でブラジル、あの派手で金ピカな色、浅草寺前であんな衣装で腰振りまくるなんて、ものすごいミスマッチ。でも、あの“外し”がものすごいパワーを生んでいる気がします。

アイデアって、あるコトとあるコトの化学反応のようなもので。三味線で民謡を弾くのは普通だけど、ロックを弾いたら新しくてインパクトある曲になります。三味線×ロックという化学反応が起きるわけです。

浅草サンバカーニバルもこの化学反応だな、と。この反応は50万人も集める“威力”を発揮しているそうです。

こんな化学反応、どこかで起こしてみたいなー!

※画像はhttp://www.asakusa-samba.orgより

平日なのに、けっこう混んでました。

平日の夜だというのに、9,446人と1万人近いサポーターを集めました。

昨日行われた天皇杯、松本山雅戦です。写真で写っているエリアは指定席なのでガラガラですが、ゴール裏はほぼ満員でした。スタンドの向こう、真っ赤に燃えてる夕日がきれいでした。

平日の水曜日、Jリーグのマッチではなく、カップ戦のまだ3回戦、相手はJ2のチーム(でも2位の好成績!)と、あまり注目を集める要素はなかったのですが。

それでも、スタジアムに行くためにお茶の水から電車に乗ったとき、青赤のタオルマフラーを持った人を見かけたり。新宿駅に着いたら、僕らサポーターに加え、相手チームカラーのグリーンもちらほらと。僕の気分も盛り上がってきました。最近は、けっこう人が集まるようになってきました。

FC東京のゲームを初めて見たのは、確か2000年、このチームがJ1に上がってきた年です。当時、味スタはまだ竣工していなかったので、国立競技場まで見に行きました。都心なのに空が広々して、スタジアムの席もガラガラで子どもたちが走り回っていました(笑)。

翌年、味スタができて、こけら落としのゲームはベルディとの東京ダービー。5万人の大観衆(このときの記録はいまだに破られていないと思う)、当時の石原都知事のへろへろとした始球式、そしてロペスの劇的な決勝ゴール・・・

アマラオやジャーン、サンドロ、福田健二、ルーカス、石川直宏、土肥洋一、梶山陽平、今野泰幸、長友佑都などなど、選手の活躍。大熊監督の大声、原さんのひょうひょうとした感じ、城福さんのジャンプもカッコ良かった。

昨夜のゲームでは、ケガ明けの梶山選手がベンチ入り。先発ではないのに、ゴール裏から特別にコールをされていました。待ってました!!という感じ。

また石川選手が後半に交代出場しました。この選手を初めて見たのは、2002年くらい、確かユース代表のテストマッチ(相手はメキシコだった、ような)。ぴょんぴょん跳ねるような動きなのに、とっても速い。右サイドをカンカン上がって、ドリブルしながらでも併走する選手をどんどん追い越してしまう、とんでもない速さは、いまもくっきり憶えています。

当時は横浜Fマリノスの所属だったのですが、確か、このゲームの後に東京に移籍したはずです。

その彼もすでに33歳。FC東京の“顔”として活躍してきた彼も、キャリアの終盤を迎えようとしています。2006年か07年の夏、チームワーストの連敗を喫したとき、ホイッスル後、崩れたまま立ち上がれなかった彼の姿が忘れられません。その他にも、まだまだ思い出がいっぱい!

そんなふうにして、いろんな選手の歴史が刻まれ、チームとしての歴史になって、それが降り積もってこのエリアの文化になっていくのだと思います。

スタジアムができてから、まだまだ13年。これからも1年1年、歴史を積み重ねて、いつかはバルセロナのような年とチームになってほしいな、と。僕は死んでいると思うけど(笑)

戦争の記憶、掩体壕(えんたいごう)

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急場しのぎで造ったようなコンクリートの“屋根”のような。初めて見たときは、地元の建築会社の資材置き場かと思ってました。

自宅近くの光景です。ちょうど、西武多摩川線をまたぐ甲州街道の陸橋があり、運転するクルマからでも、写真のように見わたすことができます。

この“屋根”は、「掩体壕」といって、戦時中、アメリカ軍の攻撃から戦闘機を隠しておく目隠しだったのだそうです。甲州街道を通るたび見かけていた不思議な建造物が、実は戦争のなごりだったなんて、初めて知ったときは、ちょっとびっくりでした。

この付近には、調布飛行場があります。いまは、民間のセスナがあったり、大島や新島への定期便が飛んでいたりしますが、昔は陸軍の飛行場でした。

滑走路があるのは、いまの味の素スタジアムの裏手。そこから北に2キロほど行くとスバルの自動車工場や、国際基督教大学(ICU)がありますが、そのあたりまで航空基地の領域だったそうです。

ちなみに、スバルの工場やICUの一帯は、「隼」などの戦闘機を造っていた中島飛行機(スバルの富士重工業の前身)の研究所跡でした。戦後、その敷地にマッカーサーの肝いりでICUが設立されています。ICUでは、中島飛行機時代の建物が、いまも校舎として使われているところもあるそうです。また、ICU内を走る道路はやけに広く造られていますが、これは戦闘機が通るための幅を確保したのだそうです。

その南側には、身近な清流で知られる野川が通る野川公園があります。そこをGoogleマップの航空写真モードで見ると、グリーンとフェアウェイがあるゴルフ場のように見えます。それもそのはず、戦後、アメリカ軍によって基地一帯が接収されたとき、米兵たちのゴルフ場として使われていたそうです。

場所柄でしょうか。ちょっと見わたしただけでも、戦後のなごりを次々に見つけることができます。

昨日は、終戦記念日でした。僕は戦争体験はないですが、せっかく身近にこんなにあれこれあるのですから、家族たちと戦争や平和について考えたり話したりするときの題材にしたいと思っています。

※写真はおととし、掩体壕が府中市によって整備され一般公開されたときのものです。