『だったらせめて、狂気の世界で戦う者たちの邪魔をするな。』
3連休の土曜日に放送された、「リーガルハイ」でのセリフです。
スペシャル番組だったこの回のテーマは「医療過誤」。
難病治療で最新薬の投薬を巡って、一人一人の命に向き合ってない、と医師の独善ぶりを主張する原告側の主張に応えて、弁護人の古御門弁護士が、法廷での反論の一部が冒頭のセリフだ。
以前、インフルエンザワクチンの取材で大学病院で感染症を研究する医師にインタビューしたことがあった。そこで医師は、「日本では“ゼロ”を追求しすぎる」「だから状況が進展しないことがある」ということをおっしゃっていたのを思い出した。
インフルエンザワクチンは、不活化しているとはいえ、ウイルスを体内に入れるわけだからリスクが高い。体質や体調によっては重篤化するし、最悪の場合、死んでしまうこともないわけではない。
なので、そういった被害者が「ゼロ」になるまでワクチンを使うべきではない、と主張する人がたくさんいるそう。
「だけど、その症例はほんの数名、ごくわずかです。その“軽微なリスク”を重視するがあまり、何百万、何千万もの人がワクチンを接種できなくて、リスクにさらされてもいいのか」と、取材した医師は主張していました。
一人一人の生命を第一として、完璧な安心・安全を追求する人たちと、
社会全体の安定や進展を重視する人たち。
という構図だと思う。まさにドラマの原告と被告の設定。
個人の幸福を願う人たちの向こう側で、研究や開発を行っている人たちのことを「狂気の世界」と、冒頭のセリフでは表現していた。そう。研究分野の最先端で頑張ってる科学者って、だいたいそんな感じ。僕ら一般人には及びもつかない。同じ言語をしゃべっているけど、思考とか解釈の構造が全然違うし。
両者は、決して相容れることはないと思う。だから、このドラマみたいに裁判沙汰になるわけで。
一人一人の安全と幸福は確かに理想だけど、それを追求するにはものすごいコストがかかる。だってそうでしょ。インフルエンザワクチンの場合、一人一人にぴったりのものを調合しないといけない。接種のとき体調が悪かったら、もういちど作り直し、やり直しだ。
それを社会全体で標準化すればそれなりのコスト(といってもけっこうかかるけど)に抑えられる。だけどその分、個人をきめ細かくフォローすることは難しくなる。
で、いまはどうかというと、個人 > 社会全体、というチカラ関係になっている気がする。典型的な例が医療訴訟で、過誤の他にも「思い通りの結果が得られなかったから」と訴訟が起こされることも多くなってきた。
確かに正当な訴訟もたくさんあるけど、だからといってアレもコレも過誤だの不正だのにかこつけていろいろ揚げ足を取るのは、医療の進歩に水を差すことにならないか、というのが今回のリーガルハイのポイント。
個人の幸福はもちろん追求されるべきだ。だけど、「狂気の世界」が社会を引っ張っていってくれないと、明日がなくなる。いま、いちばんの問題は、“ココからここまで”、という両者の間の線引きがされてないことだ。ドラマにもあったように、個人がその幸福追求の度合いをどんどんふくらませ、「狂気の世界」にプレッシャーをかけている。
古御門弁護士は、つぎのようなことが言いたかったんじゃないだろうか。
『社会全体の未来をつぶすような個人の幸福追求は、そろそろ止めにしないか。』
同様の例は医療に限らず、原発問題をはじめ東日本震災の復興とか、学校教育とかいくらでもあげられる。
※画像はhttp://www.courts.go.jp/maebashi/kengaku/tiho_maebashi/index.htmlより